第3話:宇治川、ふたたび
――承久三年(一二二一年)六月、山城国宇治川。
幕府軍は、誰の予想よりも速かった。
院宣を出した京方は、坂東の武士が「朝敵」の二文字に怯んで動けまいと高をくくっていた。動いたとしても、足柄や箱根で長く話し合いを重ねるだろう、と。
その読みが、根こそぎ外れた。
泰時の率いる東海道軍は、評定もためらいもなく、ただひたすらに西を目指した。尾張川を渡り、美濃を抜け、京方が守りの線を布く間もなく、近江へなだれ込んだ。京方の軍は各地で蹴散らされ、六月、宇治川の線まで押し込まれた。
宇治川。
三十七年前、畠山重忠がこの川を渡った。木曽義仲を追って、坂東の武士が初めて京の近くまで攻め上った、あの川だ。
あのときの敵は、同じ武士だった。
今度の敵は、帝の軍だ。
川は、梅雨で水かさを増していた。橋は落とされ、対岸には京方が楯を並べている。三十七年前と同じ光景だった。違うのは、川向こうに翻る旗が、源氏でも平氏でもなく、帝の御旗だということだった。
幕府軍の若い武者たちが、馬を川へ乗り入れようとして、一瞬、ためらった。
あれは、帝の軍だ。あれに矢を射れば、自分は朝敵になる――。
そのためらいを、年かさの武者の一喝が断ち切った。
「何を迷うか。尼御台様の御前で誓ったであろう。御恩に死ぬ、と。……あの旗を恐れるな。あの旗が恐ろしいのは、恐れる心があるからだ。恐れねば、ただの布だ」
武者が、馬を川へ躍らせた。
濁流に、馬が沈み、また浮いた。一騎が渡れば、二騎、三騎と続いた。矢が降り、何騎かが流された。それでも、坂東の武士は渡った。三十七年前、重忠が大綱を切って渡った同じ川を、今度は帝の旗に向かって渡った。
対岸の楯が、破られた。
京方は、総崩れになった。
六月十五日、幕府軍は京へなだれ込んだ。
戦いは、あっけなく終わった。後鳥羽上皇は、自ら兵を挙げておきながら、いざ幕府軍が迫ると、戦った武士たちを見捨てて和を求めた。上皇の御所の門は閉ざされ、上皇は、義時を討てという院宣を出したのは自分の本意ではなかった、と言い始めた。
泰時は、京に入った。
頼朝以来の文官・大江広元の子、毛利季光もまた、この軍にいた。京の貴族たちは、坂東の武士が都で乱暴を働くと恐れたが、泰時の軍は、驚くほど静かだった。泰時は、父・義時とも、広元ら文官の知恵とも違う、独特の落ち着きを持った若者だった。
戦後の処分は、厳しかった。
後鳥羽上皇は、隠岐の島へ流された。みずから兵を挙げた帝が、海の彼方の小島へ送られる。順徳上皇は佐渡へ。土御門上皇は、関わりは薄かったけれど、自ら望んで土佐へ下った。三人の上皇が、島へ、島へと去っていった。
帝を、武士が流した。
日の本が始まって以来、誰も見たことのない光景だった。大昔から、帝は、流されることはあっても、武士の手によって流されたことはなかった。その一線を、鎌倉は越えた。
京方についた公家と武士の土地は、ことごとく取り上げられた。三千あまりか所。その土地は、手柄のあった東国の御家人たちに、新たな御恩として分け与えられた。
武士の支配は、これで西国の隅々にまで及んだ。
承久の乱。武士が、朝廷を超えた日である。
京の六波羅に、幕府の出先が置かれ、泰時がそこに留まって西国を監視することになった。坂東の田舎武士が、千年の都を、上から見張る側に回ったのだった。




