第6話:和田合戦
――建保元年(一二一三年)五月、鎌倉。
和田義盛は、坂東で、いちばん古い武者だった。
頼朝がまだ伊豆の流人だったころから、和田の小太郎義盛は、その傍らにいた。石橋山の負け戦も、安房への都落ちも、ともにくぐった。鎌倉に侍所が置かれたとき、御家人を束ねるその初代の長官に任じられたのが、義盛だ。三浦一族の長老格にして、頼朝とともに立ち上がった坂東武者の、いちばんの古株だった。
飾らない男だった。
六十を過ぎてなお、戦場では誰より前に出た。損得も謀略も知らない。ただ、主君に従い、戦い、土地を得て、一族を養う――その古い坂東武者のやり方だけで、ここまで生きてきた。評定と書付で世を回す義時のような新しい世代から見れば、義盛は、もう一つ前の時代の、生き残りだった。
その古い時代が、義時の世には、邪魔だった。
ある時、泉親衡という男の企てた謀反が、明るみに出た。その企てに、義盛の子らと、甥の胤長が、名を連ねていた。義盛は、頼朝以来の功に免じて、子らの赦免を願い出た。義時は、子は赦した。でも、甥の胤長だけは、赦さなかった。御家人たちの居並ぶ前で縛り上げ、引き据え、流罪にした。義盛の顔に、皆の見ている前で、泥を塗る形だった。
さらに義時は、胤長の没収された屋敷を、義盛が拝領を願い出ていたにもかかわらず、横から取り上げ、自分の縁者に与えた。二重の恥だ。古い、一本気な老将を、これでもかと、追い詰めた。
わざと、だった。
義時は、義盛を、怒らせようとしていた。怒って兵を挙げれば、その挙兵を口実に、滅ぼせる。坂東最古の御家人にして侍所の長官という、目の上の瘤を、合戦の名目のもとに、消せる。義時の網は、いつも、こうだった。相手が罠と知りながら、踏まずにいられないところまで、追い込む。
義盛は、踏んだ。
建保元年五月、和田義盛は、ついに、兵を挙げた。一族郎党を率いて、御所へ攻め寄せた。罠と、知っていたかもしれない。それでも、ここまで恥をかかされて、黙って老いぼれていくのは、坂東武者の死に方では、なかった。老将の、最後の意地だった。
義盛は、一族の三浦義村を、頼みにしていた。
三浦も和田も、もとは同じ三浦一族だ。義村が一族の兵を率いて加われば、勝機はあった。義村は、加勢を、約束した。誓いの文書まで、交わしたという。でも――いざ挙兵というその時、義村は、和田の出陣の手はずを、そっくりそのまま、義時に、知らせた。
裏切りだ。
義時は、その報せを、驚きもせず、受け取った。三浦義村。八年前、由比ヶ浜で畠山重保を討ったのも、この男だった。味方を、同族を、誓いの文書を、必要とあらば、ためらいなく売る。義時は、義村という男の底の知れなさを、改めて、見た。でも、今は、その底知れなさが、義時の側にある。
和田勢は、それでも、よく戦った。
義盛の三男・朝比奈義秀は、化け物のような力持ちの武者だった。御所の大門を力ずくでこじ開け、なだれ込み、北条方の兵をなぎ倒した。一時は御所が燃え、義時の本陣すら、危うくなった。坂東最古の武者の一族は、滅びの淵で、その武勇のすべてを燃やし尽くすように、戦った。
戦は、二日に及んだ。
由比ヶ浜から若宮大路まで、鎌倉の町が、そのまま戦場になった。でも、少ない兵では、どうにもならない。三浦の裏切りで当てが外れ、味方は増えず、和田勢は、一人、また一人と、討たれていった。義盛の子が討たれ、孫が討たれた。
義盛は、それを、見ていた。
六十七の老将は、子や孫の屍が浜に積まれていくのを、馬上から見ながら、なお、退かなかった。やがて、義盛自身も、討たれた。頼朝の流人時代から、四十年近く坂東を駆け抜けた、いちばん古い武者の、最期だった。和田の一族は、由比ヶ浜に、ことごとく、果てた。
義時は、戦の後の浜を、歩いた。
潮が、和田一族の血を、洗っていく。頼朝の挙兵に、いちばん早く馳せ参じた男が、その頼朝の作った世の、新しい主に、滅ぼされた。梶原景時が消え、比企が消え、畠山重忠が消え、そして和田義盛が消えた。頼朝とともに坂東を立ち上げた古い武者たちは、もう、ほとんど、残っていない。
義盛が握っていた侍所の長官の座も、義時のものになった。
政所と、侍所。御家人の土地を差配する役所と、御家人を束ねる役所。その両方を、義時は、一身に握った。執権(しっけん=将軍を補佐する幕府の最高職)――その権力が、ここに、完成した。古い坂東武者を、一人ずつ滅ぼした、その跡地に。
残ったのは、仕組みと、それを握る北条だけだった。
義時は、浜の血を見ながら、ふと思った。頼朝とともに戦った者は、もう、自分のほかに、いくらも残っていない。その自分も、いつか、消える。でも、仕組みは、残る。仕組みさえ残れば、誰が握ろうと、鎌倉は、回り続ける。それが、頼朝の作った世の、正体だった。
古い武者の時代は、和田の血とともに、由比ヶ浜に、沈んだ。




