第5話:二俣川
――元久二年(一二〇五年)六月二十二日、武蔵国二俣川。
重忠の軍は、本当に鎌倉へ向かっていた。
ただし、謀反の軍勢ではなかった。百三十四騎。偵察がその数を告げたとき、義時は耳を疑った。武蔵の畠山が本気で兵を挙げれば、千や二千ではきかない。百三十四騎とは、つまり、土地の菅谷の館から、取るものも取りあえず飛び出してきた、供回りだけの数だ。
鎌倉に変事あり、と聞いて、主君を守りに駆けつける途中の、数だった。
二俣川を挟んで、両軍は向き合った。
こちらは数千。向こうは百三十四騎。重忠の郎党が使者に立ち、声を張った。わが主に謀反の心なし、疑いあらば、ただちに鎌倉に出向いて申し開きをする――。
義時の本陣に、諸将の目が集まった。
申し開きをさせれば、疑いが偽りであることは、半日で明らかになる。明らかになれば、偽りを作った者が裁かれる。父が、牧の方が、そして本隊の大将として兵を率いてきた義時自身が。
ここまで来てしまった軍は、もう戻れないように出来ていた。
義時は、采(さい=指揮の合図)を下ろした。
戦と呼べるものではなかった。でも、誰も予想しなかったことに、それは、長くかかった。重忠は、退かなかったのだ。降参を乞いもしなかった。百三十四騎を丘の上に立て、寄せ手を二度、三度と押し返した。坂東武者の鑑が最後に見せた戦は、勝つための戦でも、逃げるための戦でもなかった。
ただ、立っているための戦だった。
申の刻、重忠は矢に射抜かれて死んだ。四十二歳。
首実検(くびじっけん=討ち取った首を確かめる席)で、義時はその首と向き合った。
血と土に汚れた顔は、不思議なほど静かだった。怒りの形相でも、無念の歯噛みでもない。勤めをひとつ終えた者の顔だった。
――命もまた、主君への奉公のために預けるもの。
いつか人づてに聞いた、この男の言葉が、義時の耳の奥で鳴った。預けたものを、取り立てに来たのは主君の側で、しかもその取り立ては、偽りの帳面によるものだった。それでもこの男は、預けたものを返せと言わずに死んだ。
義時は、目頭が熱くなるのを、抑えなかった。
諸将の前で、北条義時は泣いた。泣きながら、胸の底のいちばん冷えた場所では、もう次の手を数えていた。この涙さえ、使える、と数えている自分がいた。
鎌倉に戻った義時は、父の前に立った。
「重忠に、謀反の証は何ひとつございませんでした。あれは、忠の男のままで死にました。……偽りの疑いで坂東武者の鑑を殺したと、御家人たちは皆、知っております。誰かが、この始末をつけねばなりませぬ」
時政の顔から、血の気が引いていった。
閏七月、北条時政は出家させられ、伊豆へ退けられた。牧の方の一派は一掃された。鎌倉を動かす座には、義時と、姉の政子が残った。
重忠の死は、こうして、それを命じた者を滅ぼす道具になり、その道具を振るった者の座を固めた。
義時は、空いた父の座に着いた。
座は、温かかった。その温かさが、義時には何よりも汚らわしく、そして、もう手放せないものだと分かっていた。




