第3話:比企の火
――建仁三年(一二〇三年)九月、鎌倉。
将軍頼家が、倒れた。
夏の終わりから病みつき、九月の声を聞く頃には、もう持つまいと誰もが思った。二十二歳だ。あまりに早い。早すぎて、跡目の支度が、何もできていなかった。
頼家には、六歳の長子・一幡がいる。
その母は、比企の娘だ。
比企能員。頼家の乳母の家であり、母方の親戚であり、頼家の世になってから急速に力を太らせた一族だ。一幡が立てば、世は比企のものになる。
対するもう一人の候補は、頼家の弟・千幡。十二歳。
その乳母筋と母方は、北条だ。
義時は、父の屋敷で、地図でも見るように、その構図を眺めていた。眺めているうちに、父のほうが先に動いた。
九月二日、時政は仏事の相談と称して、比企能員を名越の屋敷に招いた。能員は、普段着のまま、わずかな供を連れて来た。門を入ったところで、待ち構えていた武者たちに取り囲まれ、殺された。
その足で、北条方の軍勢が比企の館を囲んだ。
比企一族は一幡の御所に立て籠もり、火がかけられ、午後にはすべてが終わった。燃え落ちた御所の灰の中から、幼い一幡の遺体は、ついに見分けられなかったという。
義時も、兵を出した側にいる。
言い訳は、しない。あの日、北条が動かなければ、動いたのは比企だった。どちらかの火しかない朝だったのだ――そう、胸の内で言い切ってみて、義時は、その言い切りの滑らかさに、自分で薄ら寒くなった。
人を焼く理屈は、こんなに簡単に滑らかになる。
病の床から起き上がった頼家は、すべてを知って激怒し、北条討伐を命じようとした。でも、もう遅かった。手足になる比企は、灰だ。頼家は将軍の座を降ろされ、伊豆の修善寺へ送られた。翌年、その地で死んだ。病死と、鎌倉は伝えた。
義時は、その報せを、表情ひとつ変えずに受け取った。修善寺で何があったか、問おうとは思わなかった。問えば答えが返る。答えが返れば、それを知った者として、自分もまた手を汚した数のうちに入る。問わぬことが、手を汚さずに済む唯一の道だった。
――そして、そういう道など、もうどこにもないことも、義時は知っていた。
千幡が、三代将軍に立った。実朝と名を改めた。十二歳である。
政子は、その決定の座にいた。
わが子の頼家を退け、わが子の実朝を立てる。母として引き裂かれて当然の場で、政子は取り乱さなかった。取り乱す代わりに、尼の頭を深く下げて、ただ一言、頼みます、と重臣たちに言った。その横顔を、義時は直視できなかった。姉は、母であることを、この日この場で殺したのだ。
粛清(しゅくせい=反対者を厳しく取り除くこと)の波は、思わぬ遠くまで届いた。
南九州の島津忠久――あの御落胤の噂の男は、母が比企の縁だった。ただ、それだけの理由で、薩摩、大隅、日向の守護職を取り上げられた。本人は何ひとつ関わっていない。縁組みと乳母の網の目は、九州の果てまで繋がっていて、網が燃えれば、果ての結び目まで燃えるのだった。頼朝が南の果てに打ち込んだ楔が、今、鎌倉の内輪の火に、遠く焦がされていた。海の向こうを入口と見たあの若者の家は、それでも、薩摩の地に踏みとどまる。果てに根を張った種は、中央の火が消えたあとも、生き残るのだった。
広元は、この件の命令書も書いた。
書き終えた文官が、筆を置いて長く目を閉じていたのを、義時は見ている。
冬が来る前に、鎌倉は静かになった。
静かになった、と皆が言った。義時は、その言い方が正しくないことを知っていた。静かになったのではない。声を出す者が、減ったのだ。




