第2話:連判状
――正治元年(一一九九年)十月、鎌倉。
火種は、つまらない席から上がった。
御家人の結城朝光が、仲間内の話のついでに、亡き頼朝を偲んで、こう言った。忠臣は二君に仕えずと申す、あの折に出家でもしておけばよかった、今の世は何やら薄氷を踏むようでな――。
数日後、朝光は青い顔で三浦の屋敷に駆け込んだ。
その言葉が、悪口として将軍に告げられたというのだ。告げた者の名は、梶原景時。今の世を薄氷と言ったのは、当代様への悪口である、と。
鎌倉が、燃え立った。
火を点けたのが景時だったことが、燃えを大きくした。侍所の役人として、御家人たちの落ち度を将軍に告げるのが、景時の役目だ。役目は役目だけれど、二十年分の恨みが溜まっていた。あの男に讒言された、あの男に土地を削られた、あの男に兄を、父を――。
三浦義村が動き、和田義盛が乗った。御家人たちが次々に名を連ね、景時を訴える連判状(れんぱんじょう=大勢が連名で署名した文書)が作られた。名を連ねた者、六十六人。
義時のもとにも、その文書は回ってきた。
広げて、名前の列を眺めた。坂東の名のある家は、ほとんど載っている。これに名を書くことは、景時を殺すことだ。書かないことは、景時の側に立つことだ。
義時は、筆を取って、名を書いた。
書きながら、胸のうちで、損得だけが動いていた。景時は将軍頼家の、側近中の側近だ。景時が落ちれば、頼家の手足がひとつもげる。もげた分だけ、重臣の――北条の――目方が増える。
連判状は、広元に託された。
広元は、それを十日あまり、懐に留めた。出せば景時が滅ぶ。握り潰せば、こんどは六十六人の怒りが広元に向く。文官は十日のあいだ、両方の重さを量り続け、結局、和田義盛に詰め寄られて、文書を将軍の前に出した。
後日、義時は政所で広元とすれ違った。広元は、義時の顔を見て、聞かれもしないのに、低く言った。
「……わたしの手も、これで汚れ申した」
義時は、何も答えなかった。答えないことが、せめてもの礼だと思った。
景時は申し開きを立てられず、鎌倉を追われた。
年が明けて正月、土地の相模一宮を引き払い、一族郎党を率いて景時は西へ向かった。京で再起を図るつもりだったとも、ただ落ちのびる先を求めただけだったとも言われる。
駿河の清見関のあたりで、その一行は土地の武士たちに見とがめられた。何者かと問われ、押し問答になり、どちらが先に刀を抜いたかも分からぬまま、合戦になった。鎌倉の侍所の長官として御家人たちの上に立った男の最期は、名も知らぬ駿河の地侍との、名分も何もない山あいの斬り合いだった。景時は子らとともに山に追い詰められ、討たれた。鎌倉に首が届いたとき、それを悼む声は、ついにどこからも上がらなかった。
報せを聞いたとき、義時は人づてに幾度も聞かされた話を思い出していた。
石橋山の岩屋だ。あのとき景時が「ここにはおらぬ」と言わなければ、頼朝の世はなく、鎌倉はなく、この連判状もなかった。世を作った男のひとりが、世が出来てしまったあとには、もう要らなかった。それどころか、皆の恨みを束ねる薪として、ちょうどよかった。
理屈で動く男は、最後は皆の恨みの炎に、焼かれた。
義時は、連判状の名前の列を、もう一度思い浮かべた。六十六の名前。あの列は、これからも何かのたびに作られるだろう。名前の列が、次に誰を囲むのか。
次は誰だ、と考えている自分に気づいて、義時は薄く目を閉じた。




