第4話:武家の都
――建久三年(一一九二年)、鎌倉。
義経の最期は、北の果てから知らされてきた。
文治五年、奥州平泉。匿っていた藤原氏が、鎌倉の圧力に耐えかねて館を襲い、義経は妻子とともに自害した――。
報を聞いた鎌倉は、静かだった。歓声も、悲しむ声もない。終わるべきものが終わった、という顔を、皆がしていた。むしろ町のほうが騒いだ。京でも鎌倉の町でも、人々は涙し、九郎判官の物語は早くも歌になり始めていた。哀れな英雄の物語は、人の心を打つ。広元は、それを止めようとも思わなかった。物語は物語、書付は書付だ。世を動かすのは後者のほうだと、もう確かめてしまっていた。
いや――と、広元は、思い直した。
義経という男は、武勇においては、その時代に並ぶ者のない英雄だったろう。鵯越を駆け下り、壇ノ浦で平家を沈めた。一騎当千とは、ああいう男のためにある言葉だ。その英雄が、より強い武者にではなく、書付と組織に――兄の作った仕組みに呑まれて、消えた。
武勇で世を動かす時代は、義経で終わるのかもしれない。これからは、一人の強さではなく、仕組みが世を回していく。一騎当千の英雄を、世のほうが、だんだん要らなくしていく。
古いものが、新しいものに呑まれて、消える。広元には、これが、その最初の一つに思えた。これから先、幾度も繰り返されていくだろう、長い連なりの、いちばん最初の一つに。
その夏、頼朝は自ら大軍を率いて奥州を攻め、藤原氏を滅ぼした。
義経を死なせたのに、藤原氏も滅ぼす。筋が通らないようでいて、ちゃんと通っている。鎌倉に従わない力を、日の本に残さない。ただ、それだけのことだった。戦後の沙汰で、常陸の御家人・伊達の一族が、奥州の伊達郡を賜り、北の地に根を下ろした。常陸から移った一族にとって、奥州の冬は長く、雪は深い。でも、京から最も遠いという、その遠さこそが、いつか家を、中央の嵐から匿う盾になる。南の島津と同じ、京から最も遠い土に落ちた、小さな種だった。
そして建久三年の夏、京から使者が下った。
征夷大将軍、源頼朝。
ようやく、というのが鎌倉の本音だった。後白河の上皇が世を去るまで、この位は下りなかったのだ。でも、広元は、将軍に任じられたことそのものよりも、それを受け取る町の姿のほうに、感慨があった。
鎌倉が、都になっていた。
十年前、広元が初めて下ってきたとき、ここは砂と松原と板屋根の屋敷が散らばる、大きな村に過ぎなかった。それが今はどうだ。鶴岡八幡宮の朱が山を背に輝き、その前から海へ、若宮大路が一直線に貫いている。大路の中央には段葛(だんかずら=盛り土をした参道)が築かれ、左右には御家人の屋敷が屋根を並べる。浜には船が着き、市が立ち、唐の品さえ並ぶ。
京の真似では、なかった。
京の都が碁盤の目に貴族の雅を敷き詰めた町なら、鎌倉は一本の矢だった。八幡の神から海へ、まっすぐに引かれた一本の矢。その矢の左右に、武士たちが質素な屋敷を構え、誰も貴族のような御殿など造らない。庭に池を掘る代わりに、馬場をならす。歌合わせの代わりに、笠懸(かさがけ=馬上から的を射る競技)の的を立てる。
その的を射る作法にも、すでに師がいた。
鶴岡八幡宮の馬場では、折々に流鏑馬(やぶさめ=走る馬上から的を射る武芸)が奉じられる。疾走する馬上から、三つの的を続けざまに射抜いていく神事である。その射手を束ね、御家人の子弟に弓と馬の作法を授ける役を、頼朝は小笠原長清という男に命じていた。甲斐源氏の出で、富士川の夜に水鳥を立てた、あの一族の同族である。
広元は、京下りの目で、それを眺めることがあった。
京にも、儀礼はある。でも、京の儀礼は、誰も的を射ない。袖を払い、座を改め、言葉だけが雅に流れていく。鎌倉の儀礼は、的を射る。外せば恥となり、中てれば誉れとなる。同じ礼でも、こちらの礼は、いつも実戦に裏打ちされていた。
武士は、戦に強いだけではないらしい。戦のない日にも、武士であるための形を――馬の乗りこなし方、矢のつがえ方、的の前での身のこなし方を、ひとつずつ作り始めている。広元は、長清の一団が砂を蹴って駆け抜けるのを見ながら、思った。土地と、戦と、そしてこの弓と馬の作法。武家というものが、京とは別の背骨を、もうひとつ持ちつつある。




