第3話:南へ
――文治元年(一一八五年)の暮れ、鎌倉。
その若者の出勤には、いつも小さなさざめきがついて回った。
惟宗忠久。歳のほどを、確かに知る者はいない。二十歳をいくつか出たあたりに見えた。御所の廊下を渡ってくると、御家人たちの目が、ちらりと動き、口の端が、動く。声は低められているけれど、言っていることは、皆同じだった。
――あれが、例の。
――御落胤(ごらくいん=身分の高い人がひそかにもうけた子)よ。佐殿の子だと。母御が比企の縁の御方ゆえ、な。
噂だ。誰も確かめたことはなく、頼朝も忠久も、一度も口にしたことがない。でも、噂とはそういうもので、口にされないことが、かえって燃料になった。
忠久自身は、噂を聞こえないものとして生きてきた。
聞こえるままに生きていれば、調子に乗るか、潰れるかの、どちらかだ。乳母の家である比企の人々は、忠久を実直に育てた。槍働きよりも勤めの確かさで知られ、頼朝の供をして歩く姿は、影のように静かだった。
その忠久に、命令が下りた。
南九州、島津の荘の下司職(げすしき=荘園の現地管理人)、ついで地頭職。
島津荘――日向、大隅、薩摩にまたがる、日の本でいちばん大きな荘園だ。そして、日の本でいちばん都から遠い土地でもあった。
命令を聞いた御家人たちの反応は、二通りだった。羨む者は、その広さを見た。憐れむ者は、その遠さを見た。
「島津か。……あれは、流されるのと何が違うのだ」
と、聞こえよがしに言う者もいた。坂東武者にとって、坂東を離れることは、根を抜かれることだ。まして九州の南の果てなんて、雲の向こうの話だった。
忠久は、礼を述べて下がり、その足で浜へ出た。
由比ヶ浜の冬の海を、しばらく見ていた。
遠い、と人は言う。確かに遠い。でも、忠久は、比企の屋敷で育つあいだに、商人や僧の話を聞くのが好きだった。坊津という港の名を知っていた。南の海の向こうには琉球があり、宋があり、唐の品を積んだ船が行き交っているという。
都から見れば、果てだ。
でも、海から見れば――あそこは、入口なんじゃないのか。
出発の前、頼朝が忠久を召した。人払いはされなかったが、座は近かった。頼朝は地図を広げさせ、島津荘のあたりを指で叩いた。
「広いぞ。坂東がもうひとつ入る」
「は」
「遠いぞ。何かあっても、鎌倉の兵は間に合わぬ」
「は」
「……それでも行くか」
忠久は、顔を上げた。
目の前の主君の顔を、まっすぐに見た。御落胤の噂が本当かどうか、忠久は知らない。知らないけれど、この主君から土地を預かり、この主君のために南の果てを固める。それだけは、噂とは関わりのない、書付に書かれた本当のことだった。
「行きまする。……いただいた土地に、島津の名で根を張りまする。百年でも、二百年でも」
頼朝は、何も言わずに二度、頷いた。
年が明けて、忠久の代理の一行が鎌倉を発った。忠久自身も、やがて折を見て西へ下ることになる。見送りの中に、広元もいた。
広元は、遠ざかる一行を眺めながら、自分の描いた図の上を、今、最初の駒がいちばん遠くへ動いていくのを見る思いがした。
守護と地頭。書付の上の線が、ああして人になり、家になり、土地に根を張っていく。
あの根が百年後にどんな木になっているか、それは文官の設計図には書けないことだった。




