第2話:守護と地頭
――文治元年(一一八五年)十一月、鎌倉。
その年の秋、鎌倉と京の間で、糸が一気に張り詰めた。
発端は、頼朝の弟だった。
九郎義経。平家を壇ノ浦に沈めた、当の大将が、兄と決裂した。京で官位を受け、京で名声を浴び、京の理屈の中で生きようとする弟を、鎌倉の理屈が許さなかったのだ。義経は都を落ち、行方をくらました。落ちる前に、後白河の上皇から、頼朝を討て、という院宣(いんぜん=上皇の命令書)まで引き出していた。
鎌倉は、燃え立った。
でも、広元は、御所の評定の隅で、別のことを考えていた。
頼朝を討て、という院宣は、出た。出たけれど、義経に兵は集まらず、院宣は早々に紙くずになった。京は慌てて手のひらを返し、こんどは義経を討て、という院宣を出すという。
つまり、院宣とは、その程度のものだ。そのことが、天下に知れた。
力ある者の求めに応じて、どちらの側にも出る紙。ならば――。
「殿」
評定が荒れ果てたところで、広元は静かに口を開いた。御家人たちの目が、京下りの文官に集まった。
「九郎殿の行方は、知れませぬ。西国に潜むか、北へ走るか。いずれにせよ、捜すのは諸国の山と荘園(しょうえん=貴族や寺社の私有地)の中にございます」
「回りくどい。言いたいことを言え」
「は。……諸国に、御家人を置きまする。国ごとに守護を、荘園と公領(こうりょう=国の直轄地)のひとつひとつに地頭を。守護は国の軍事と警察を、地頭は土地の管理と年貢の取り立てを担う。名目は、九郎殿とその仲間の捕縛。兵糧を集める権、田一段ごとに五升。これを、朝廷の許しでお認めいただく」
評定の座が、ざわついた。
誰かが、それは謀反人捜しの触れであろう、と言った。広元は首を振らなかった。振らずに、続けた。
「捕縛は、いずれ終わりまする。九郎殿が見つかれば終わり、見つからずとも、ほとぼりが冷めれば終わる。……なれど、一度置かれた守護と地頭は、終わりませぬ。諸国の土地のひとつひとつに、鎌倉の名で人が立つ。坂東だけのものだった御恩と奉公が、日の本の隅々まで届く。……これは、謀反人捜しの触れの顔をした、世の作り替えにございます」
座は、静まり返った。
武士たちは、広元の言ったことの半分も分からなかったかもしれない。でも、上座の頼朝だけは、最後まで身じろぎもせずに聞いていた。聞き終えて、ただ一言だった。
「時政を、京へやれ」
十一月、北条時政が千騎を率いて京へ上った。
脅しではない、と言えば嘘になる。でも、刀は抜かれなかった。時政は上皇の御所に参上し、丁寧に、しつこく、求め続けた。京は渋り、値切り、引き延ばし、そして最後には認めた。文治の勅許(ちょっきょ=天皇の許可)だ。
諸国に守護を、荘園に地頭を。
その報せが鎌倉に届いた夜、広元はひとりで書き付けを開き、日の本の国々の名を、上から順に書き出してみた。六十あまりの国。そのひとつひとつに、これから鎌倉の御家人が立っていく。
筆を置いて、広元は思った。
義経どのは、ご自分が何の名目に使われたか、ご存じないだろう。
兄弟の不和という、どこの家にもある悲しい話がひとつ。それが、世の仕組みを丸ごと作り替える梃子になった。京の町では、判官殿(=義経)は気の毒に、兄君は酷いお方よと、もう涙混じりの噂話が始まっているという。人々は人を哀れみ、物語を語る。その間に、書付が世界を塗り替えていく。
どちらが本当の歴史なのか。
広元は、答えの分かりきった問いを、それでも一度だけ、自分に問うてみた。




