第1話:戦のあとに
――元暦二年(一一八五年)四月、鎌倉。
壇ノ浦の報せが鎌倉に着いた日、御所は沸いた。
平家、ことごとく海に沈む。安徳の帝は祖母の尼に抱かれて海へ身を投げ、宝剣は海に失われ、捕らわれた者たちは都へ送られる――。
二十年あまり日の本を覆っていた平家が、終わった。廊下を走る足音と歓声の中で、武士たちは抱き合い、太刀を掲げ、誰かが早くも先陣の手柄話を始めていた。
その騒がしさの隅に、ひとりだけ、損得を数えている男がいた。
大江広元。京から下ってきた文官だ。歳は三十八。背は低く、声も低く、太刀を差してはいるけれど、抜いたことは一度もない。
広元は、書き付けを前に考えていた。
戦が終わった。つまり、戦よりも厄介なものが始まる。
恩賞だ。西国まで攻め上った御家人たちは、それぞれに手柄を言い立てて、土地を求めるだろう。でも、土地は限られている。平家から取り上げた土地を、どう量り、どう分けるか。分け方をひとつ間違えれば、昨日まで肩を並べていた者同士が、明日は境界の杭をめぐって殺し合う。
武士は、戦には強い。
でも、裁くことは、できない。
広元が鎌倉に来て、まず驚いたのが、それだった。坂東武者は、一所懸命という。一つの土地のためには、命を懸ける。命を懸けるから、土地の争いが、そのまま殺し合いになってしまう。誰かが間に立って、書付と道理で裁いてやらなければ、この世はいつまでも、血で土地を量ることになる。
その裁き手として、頼朝は京から文官を呼んだのだ。広元の兄・中原親能が、早くから頼朝に仕えていた縁で、広元にも声がかかった。京で書記の仕事を生計にしていた身には、思いもよらない話だった。
来てみて、分かった。
ここには、京にないものがある。
京では、政は、とうの昔に儀式になっていた。誰が何位に昇るか、誰がどの座に着くか。中身のある決め事は何ひとつ動かないのに、形だけが豪華に回り続ける。鎌倉は逆だった。形はまだ何もない。あるのは、土地と、馬と、欲と、それを束ねるひとりの男だけだ。
形のないところに、形を作る。
文官にとって、これほどの仕事が他にあるか。
夕方、広元は頼朝に呼ばれた。戦勝の宴の輪から早々に抜け出した頼朝は、いつもの居室で、いつもの顔をしていた。
「広元。これから忙しくなるぞ」
「は。恩賞の命令が、山のように」
「それもある。だが、まず厄介なのはあれよ」
頼朝は、西の方角へ顎をしゃくった。
「京が、勝った気でいる」
広元は、すぐに意味を取った。
平家を倒したのは鎌倉の軍なのに、京の朝廷は早くも、これで世が元に戻ると思い始めている。武士どもはご苦労だった、恩賞は追って沙汰(さた=命令)する、だから兵を解いて田舎へ帰れ――そういう顔をしている。
二十年前なら、それで戻ったのだろう。
でも、頼朝は、戻す気がない。広元にも、それはもう分かっていた。
「殿。戻さぬためには、刀では足りませぬ」
「ほう」
「刀は、京で振れば賊の刀にされまする。要るのは、書付にございます。朝廷の名で書かれて、なお鎌倉の手の内にある書付。……それを取りに参りましょう。急がず、騒がず、一枚ずつ」
頼朝は、しばらく広元の顔を見て、それから初めて、戦勝の日らしい笑い方をした。
「文官は、恐ろしいな」
広元は、頭を下げただけだった。
恐ろしいのは、わたしではない。あなただ――その言葉は、呑み込んだ。武士でもないのに、武士の世の設計図を引いている自分が、その図に、これから何を描こうとしているのか。広元自身、まだ全部は見えていなかった。




