↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第二章 坂東武者——畠山重忠の誓い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
16/141

第5話:讒言

 ――文治三年(一一八七年)、鎌倉。

 一ノ谷から、三年が過ぎていた。

 あの翌年、長門の壇ノ浦(だんのうら)で、平家はついに滅んだ。海の上に追い詰められた赤旗の一門は、もう陸に居場所もなく、船もろとも、波に呑まれた。幼い帝は、祖母に抱かれて海の底へ沈み、代々伝わってきた宝剣も、ついに上がらなかった。源平の戦は、その海の底とともに、終わった。

 海の戦を制したのも、また、九郎義経だった。

 一ノ谷の崖を駆け下り、屋島(やしま)を奇襲し、壇ノ浦で平家を沈めた。武勇において、その時代に並ぶ者のない男。坂東の武者たちは、その鮮やかさに舌を巻いた。

 でも――その勝利の頂きから、義経は、まっさかさまに落ちていった。

 手柄を立てすぎ、京の帝に近づきすぎ、兄が作ろうとしている仕組みの外で、輝きすぎた。鎌倉殿は、いちばん華々しく平家を滅ぼしたその弟を、いちばん警戒した。そしてついに、討つべき相手に変えてしまった。義経は今、追われる身になって、京を逐われ、行方をくらましているという。勝った者が、勝ったからこそ、追われる。重忠は、その報せを、遠くから、奇妙な寒さとともに聞いていた。

 もう一つ、重忠には、気がかりがあった。

 父・重能のことだ。一ノ谷の沖で、平家の船にいた父。壇ノ浦で、赤旗の一門が海へ沈んだとき、父もまた――と、重忠はずっと案じ続けていた。

 報せは、遅れて届いた。

 重能は、海に沈まなかった、という。平家の貴族ではなく、ただ都で連れ去られただけの坂東の人質だった父には、一門が死を選んだその海で、死をともにする義理も、なかった。戦のあと、父は、表舞台から静かに身を引いて、残りの日々を、目立たないところで過ごしたという。生き延びた、というより、世の隅へ、そっと外れていったのだ。

 勝ちすぎた義経が、追われる。

 負けた側の船にいた父が、かろうじて生き延びる。

 戦が終わってみれば、誰が報われて、誰が消えるのか――それは、戦場での働きだけでは、決まらなかった。それを決めるのは、もっと別の、目に見えないものだった。

 そして、その三年目の春。

 使者は、雨の朝に来た。

 鎌倉殿の命により、畠山次郎重忠の身柄を千葉胤正(ちばたねまさ)に預ける。郎党は付けず、ただちに――。

 理由は、告げられなかった。

 でも、心当たりを探すまでもなく、噂のほうが先に届いていた。重忠に謀反(むほん=主君にそむくこと)の企てあり、と讒言(ざんげん=事実をまげた告げ口)した者がいる、というのだ。秩父の土地で兵糧を蓄え、人を集めている、と。――蓄えてはいた。でも、冬に備えない家なんて、どこにある。人も集めていた。でも、工事のための人夫だ。それでも、疑いの目で見れば、何もかもが謀反の支度に見えてしまう。

 郎党たちは色を失った。


「殿、お断りなされませ。これは罠です。出向けば、広常様の二の舞に」


 その名が出たとき、広間の空気が、固まった。

 誰もが思っていて、でも誰も口にしなかった名前だ。双六の席で斬られた男。あとから、潔白を示す願文が出てきた男。

 重忠は、静かに立ち上がった。


「支度をする」

「殿」

「弁明はせぬ。兵も連れぬ。それで斬られるなら、鎌倉殿の世はその程度のものだったということだ。……わたしはそうは思っていない。だから行く」


 千葉の屋敷での日々が始まった。

 預かりの身だ。千葉胤正は丁重にもてなしたけれど、重忠は、出された膳(ぜん)に箸をつけなかった。

 一日目、胤正は、病気かと案じた。二日目、どうも様子が違うと気づいた。三日目、たまりかねて、問うた。


「重忠殿。なにゆえ召し上がらぬ」

「疑いを受けた身です。疑いの晴れぬうちに人の情けで腹を満たせば、命惜しさに媚びたことになる。……それに」


 重忠は、薄くなった頬で、わずかに笑った。


「謀反人なら、逃げるか、暴れるか、命乞いをするでしょう。何もせずに痩せていく謀反人など、聞いたことがない。これがわたしの、弁明の代わりです」


 胤正は絶句して、その夜のうちに鎌倉へ早馬を立てた。

 数日して、命令が下りた。疑いは晴れた。身柄を解き、土地はもとのとおりとせよ――。

 迎えに来た郎党たちは、馬にも乗れないほど痩せた主を見て、泣いた。重忠は笑って、まず湯漬け(ゆづけ)を一杯だけ食べると、それから言った。


「な。世は、その程度のものではなかったであろう」


 郎党たちは、泣き笑いになった。

 でも、その夜。ひとり寝の床で、重忠は天井を見ていた。

 晴れた。晴れたけれど――疑いは、いったいどこから来たのか。讒言ひとつで、御家人の身柄が、その日のうちに召し取られる。広常のときは、刃のほうが先に来た。自分のときは、たまたま、刃の前に預かりが来た。その違いは、ほんの紙一重ではなかったか。

 御恩と奉公の約束は、まっすぐだ。

 まっすぐだけれど、その糸の上の端は、人の心という、いちばん目に見えないものに、結ばれている。

 ――例外だ、と重忠は思うことにした。広常のことも、今度のことも、長い世の中の、ただの例外なのだ、と。

 そう思うことにして、目を閉じた。

 雨が、屋根を叩いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。