第10話:長篠・名臣の死
――天正三年(一五七五年)五月二十一日、設楽原。
武田の将は、退かぬ将だった。
兵が崩れ、波が砕けても、武田の名のある将たちは、踏みとどまった。退却を進言した者も、いざ戦が始まれば、誰より前で、戦った。それが、信玄に鍛えられた、武田の将の、誇りだった。そして、その誇りが、彼らを、一人ずつ、死なせていった。
山県昌景が、倒れた。
赤備えを率いて、幾度も柵へ突っ込んだ猛将である。最後の突撃で、馬上のその体に、いくつもの弾が、撃ち込まれた。それでも昌景は、馬から落ちず、采配を握ったまま、前へ進もうとした、と伝わる。やがて力尽き、赤い具足が、赤い血に染まって、地に伏した。武田で最も恐れられた赤備えの将の、最期だった。
内藤昌豊が、倒れた。
信玄の代から、幾多の戦場を駆けた、武田四名臣の一人である。崩れる味方を立て直そうと、敵中深く踏み込み、囲まれて、討たれた。
原昌胤が、倒れた。
軍の配置を預かり、陣立てを差配した将である。退くべき戦を、退けぬまま、その差配の才を活かす間もなく、入り乱れた戦いの中に、消えた。
真田の兄弟も、倒れた。
真田信綱と、その弟・昌輝である。二人は、信玄に重く用いられた真田幸隆の、長男と次男だった。兄弟は、ともに、この設楽原で、討ち死にした。
真田の家には、もう一人、弟がいた。
三男の、昌幸だ。この日、兄たちが揃って戦場に散ったことで、真田の家督は、思いがけず、末弟の昌幸に、転がり込むことになる。長篠の野に流れた兄弟の血が、後の世に、表裏比興――食えないほどしたたかな男、と呼ばれる人物を、一家の主に押し上げた。
土屋昌次が、倒れた。
破れた柵の、いちばん深くまで斬り込んだ将である。柵の内へ、もう一歩、と迫ったところで、集中する弾を浴びて、果てた。
武田の名のある将が、次々と、設楽原の土に、還っていった。
一人が倒れ、二人が倒れ、やがて、数えるのも追いつかぬほど、武田の主立った将が、討ち死にした。信玄が二十年かけて育てた、武田の頭脳が、たった一日で、野に散った。
勝頼は、退いた。
もはや、戦は、決していた。これ以上、踏みとどまれば、当主自身が、討たれる。勝頼は、わずかな供に守られて、戦場を、離れた。父の遺した最強の軍団の、ほとんどを、この野に置き去りにして。
その勝頼を、逃がすために、最後に踏みとどまった将が、いた。
馬場信春である。
武田四名臣の筆頭格、信玄以来の、老将だった。信春は、退く勝頼の後ろに、しんがりとして残った。主君を、無事に逃がす。それを見届けてから、自分は、死ぬ。古い武士の、いちばん古い役目を、信春は、引き受けた。
信春は、わずかな手勢で、追い討ちの敵を、防いだ。
勝頼の姿が、遠ざかり、戦場の喧騒の向こうに消えるまで、信春は、踏みとどまった。主君が、十分に落ち延びたと見て、信春は、ようやく、自らの死に場所を、定めた。馬首を返し、敵の中へ、ただ一騎、駆け込んでいった。そして、討たれた。
六十を超える、白髪の老将だった。
信玄とともに、戦国最強の名を築き上げた男の、最期だった。その死は、一人の将の死ではなかった。信玄の時代そのものが、馬場信春とともに、設楽原の野に、沈んだのである。
日が、傾いた。
設楽原の野を埋めていたのは、おびただしい数の、亡骸だった。そして、その亡骸の、名のある者の多くが、武田方だった。
織田徳川の側にも、死者は、いた。柵を破られ、斬り込まれた一角では、少なからぬ兵が、討たれた。でも、名のある将を、織田徳川は、ほとんど、失わなかった。武田は、家を支える将たちを、根こそぎ、失った。
死んだ将の数が、すべてを、語っていた。
勝った側が、誰を失わず、負けた側が、誰を失ったか。その差が、この戦の、本当の意味だった。武田は、戦に負けただけではない。家を動かす頭脳を、一日で、失ったのである。この日の損失から、武田は、ついに、立ち直れなかった。
信長は、戦場を、見渡していた。
倒れ伏す、おびただしい騎馬武者の亡骸を、平らかな目で、眺めていた。馬を駆り、槍を取り、一騎当千を誇った、古い武士の精鋭。その精鋭が、田を持たぬ兵の、引き金一つの前に、こうして、土に伏している。
武士の戦が、変わった。
馬の足の速さでも、槍の腕でも、血筋の誇りでもない。鉄炮を、何挺、揃えられるか。それを撃つ兵を、季節を問わず、何人、養えるか。戦の勝ち負けは、そこで、決まるようになった。長篠の野で、一つの時代が、火薬の煙の向こうに、消えていった。
信玄が、生きていれば。
誰かが、そう、つぶやいたかもしれない。でも、信玄が生きていても、いずれ、この審判は、来ただろう。鉄炮は、待ってはくれない。古い最強は、どのみち、新しい兵器に、ふるい落とされる運命だった。長篠は、その最初の、はっきりとした判決だった。
信長は、馬を返した。
戦場で死者を弔うことなど、この男の頭には、なかった。次は、海だった。石山の本願寺へ、海から兵糧を運び込む、毛利の水軍。それを、断つ。陸で騎馬を屠った男は、次に、海の上で、もう一つの、古い力と、向かい合うことになる。




