第9話:長篠・決戦
――天正三年(一五七五年)五月二十一日、設楽原。
夜明け前に、雨は、あがった。
武田にとっての、わずかな希望は、消えた。湿った火縄は、乾いていく。設楽原に、白い朝霧が、立ちこめていた。その霧の中で、武田の騎馬が、動き始めた。
武田が、攻める。
信長の読みどおりだった。退くに退けぬ勝頼は、攻める道を、選んだ。父・信玄が鍛え上げた騎馬の精鋭が、地を蹴って、織田徳川の柵へ、突っ込んでいく。
まず、右翼が、駆けた。
山県昌景の、赤備えである。具足も、旗指物も、馬具までも、すべてを赤で統一した、武田で最も恐れられた部隊だった。その赤い流れが、霧を裂いて、徳川の備えに、襲いかかった。
地が、鳴った。
何百もの馬の蹄が、一度に地を打つ音は、腹の底に響く雷だった。槍を構えた騎馬武者が、低い姿勢で、まっすぐ突っ込んでくる。その迫力は、噂に違わなかった。柵の内の足軽たちが、思わず、身をすくめた。
柵の内で、その音を聞いていたのは、田を持たぬ男たちだった。
鉄炮を構えていたのは、武士ではなかった。銭で雇われ、飯を食わせてもらう代わりに引き金を引く、名もない足軽たちである。多くは、生まれてこのかた馬に乗ったことがない。刀の遣い方も、まともに習っていない。
彼らがしていたのは、手順だった。
筒の先から、玉薬を、決められた量だけ入れる。玉を落とす。槊杖で突く。火皿に口薬を盛る。火蓋を閉じる。火縄を挟み、火蓋を開け、引き金を引く。それだけの手順を、間違えずに、繰り返す。
組頭が、後ろから、数を数えていた。
一つ、二つ、三つ。数える声に合わせて、手が動く。近づいてくる地鳴りを、見ないようにしていた者もいた。見れば、手が止まる。手が止まれば、間に合わない。
男たちは、地鳴りを、聞かないようにして、玉を、込めていた。
鉄炮が、火を噴いた。
柵の内から、一斉に、銃声が轟いた。頬に、火薬の熱が、ぱっと当たった。肩を、後ろへ、強く突かれた。煙が、霧に混じって、視界を白く塗りつぶした。何に当たったのか、撃った本人には、見えなかった。
見えないまま、次の玉を、込めた。
先頭の騎馬が、馬ごと、崩れ落ちた。でも、後続は、止まらない。倒れた仲間を乗り越えて、なお、柵へ迫った。
ここで、織田徳川が、終始押していたわけではない。
鉄炮は、一度撃てば、次の弾を込めるのに、時がかかる。火薬を入れ、玉を込め、火縄を整える。その合間に、武田の騎馬は、柵へ取りついた。縄を切り、丸太を引き倒し、柵の一部を、突き破った。破れ目から、赤備えの兵が、なだれ込んだ。
柵の内が、乱れた。
突き破られた一角で、激しい斬り合いが、起きた。武田の兵は、強かった。一人で、二人、三人を、斬り伏せた。織田の足軽が、押された。柵を頼みにしていた兵たちが、その柵を破られて、浮き足立った。
信長の本陣にも、その崩れは、伝わった。
でも、信長は、動じなかった。破れた柵には、すぐに次の兵を入れ、塞がせた。鉄炮を、絶やさず、撃ち継がせた。一つの隊が撃つ間に、別の隊が弾を込め、また撃つ。波のように、銃声を、途切れさせなかった。破れ目に殺到した武田の兵は、その絶え間ない弾の中で、討ち取られていった。
武田は、退かなかった。
一つの隊が崩れれば、次の隊が、駆けた。山県が退けば、別の備えが、突っ込んだ。波のように繰り返す攻めである。何度も、何度も、武田の騎馬は、柵へ向かって駆けては、撃たれ、また駆けた。設楽原の野は、人と馬の亡骸で、埋まっていった。
戦は、半日に、及んだ。
朝霧の中で始まった戦いが、日が高く昇っても、終わらなかった。一進一退の、削り合いだった。織田徳川は、鉄炮と柵に拠って、武田の波を、受け止め続けた。武田は、その波を、何度も、送り込み続けた。
でも、その波は、送るたびに、減っていった。
駆けては撃たれ、また駆けては撃たれるうちに、武田の騎馬は、一騎、また一騎と、地に伏していった。父・信玄が、二十年かけて鍛え上げた精鋭が、田を持たぬ兵の撃つ鉛の玉で、すり減らされていく。一人を育てるのに二十年かかる騎馬武者が、一発の弾で、消えていった。
撃つ側の指は、火薬で黒くなっていた。
昼が近づくころ、足軽たちの耳は、もう、ろくに聞こえていなかった。撃つたびに、頭の芯が痺れる。誰かが何か叫んでいるのは分かるが、言葉にはならない。それでも、手だけは、覚えた順序で動いた。玉薬。玉。槊杖。口薬。火蓋。
誰が近づいてきて、誰が倒れたのかを、彼らは、知らなかった。
地鳴りが、少しずつ、遠くなっていくことだけが、分かった。
昼を過ぎたころ、戦いの傾きは、はっきりと、片方へ、傾き始めた。
武田の波は、勢いを、失っていた。何度も繰り返した突撃で、兵は疲れ、数は減り、隊は崩れていた。織田徳川の柵は、破られても破られても、塞がれ、なお、そこに在った。
そして、武田の名のある将たちが、一人、また一人と、その柵の前で倒れていく時が、来ていた。




