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刀を持たない朝 ―武士とはなにか、七百年の物語―  作者: ソリトん
第四部 天下人の時代——統一と終わりの始まり / 第一章 信長——武士の慣習を壊した男

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第7話:小谷落城

 ――天正元年(一五七三年)七月、京。

 将軍が、信長に、弓を引いた。

 足利義昭である。御父とも頼む、と涙を流した男が、信長に首根を押さえられるうちに、その後ろ盾を、疎ましく思うようになった。義昭は、ひそかに諸国へ書状を送った。武田に、朝倉に、浅井に、本願寺に――信長を、討て、と。将軍の名で、信長を囲む網を、張ろうとした。

 信長は、それを、知った。

 京に兵を入れ、将軍の御所を囲んだ。義昭は、抗おうとしたが、抗う力など、もとよりなかった。後ろ盾の力で座に就いた者に、その後ろ盾と戦う術は、ない。

 信長は、義昭を、殺さなかった。

 ただ、京から、追い出した。舟に乗せて、川を下らせた。それだけだった。

 足利の将軍が、京を、出ていった。

 尊氏が幕府を開いてから、二百三十余年。北朝を立て、南朝と争い、応仁の乱で焼かれてもなお、足利の血は、京の座に在り続けた。その血が、今、一艘の舟に乗せられて、惨めに京を去っていく。誰も、見送らなかった。誰も、刃を向けもしなかった。ただ、いらぬものとして、棚から下ろされた。

 義昭は、死ななかった。

 各地を流れ、毛利に身を寄せ、なお将軍の位を称し続けた。足利の血は、しぶとかった。討たれず、滅びず、ただ、世の隅で、生き永らえた。室町の幕府は、こうして、戦のない幕引きの中で、事実上、終わった。

 信長は、義昭を見送りもせず、北へ、軍を向けた。

 将軍の網が破れた今、その網に連なった者を、一つずつ、断つ。まず、越前の朝倉だった。



 ――天正元年(一五七三年)八月、越前・一乗谷。

 一乗谷は、北の京だった。

 越前の山あいの、細長い谷である。その谷に、朝倉は、百年かけて、京を写した町を築いた。当主の館があり、武家の屋敷が軒を連ね、町には市が立ち、職人が腕を競った。庭には、京から運んだ石が据えられ、水が引かれ、四季の花が咲いた。

 夜には、館で、能が舞われた。

 当主・朝倉義景は、京から公家や連歌師を招き、和歌を詠み、香を聞き、酒を酌んだ。北国の山の中に、雅があった。乱世の殺伐の中で、一乗谷だけは、別の時間が流れているようだった。義景は、その雅の中に、生きていた。

 その雅が、三日で、灰になった。

 信長の軍が、谷へ攻め入った。義景は、戦らしい戦もできず、谷を捨てて逃げた。逃げた先で、頼った一族の者に裏切られ、自ら命を絶った。百年続いた朝倉の家は、当主の自害とともに、絶えた。

 一乗谷は、焼かれた。

 館も、屋敷も、市も、職人の家も、三日三晩、燃え続けた。京を写した北の都は、焼け跡だけを残して、谷に沈んだ。後の世が、その焼け跡を掘り起こすまで、一乗谷の雅は、土の下で、長い眠りについた。

 雅は、力の前に、何の役にも立たなかった。

 和歌も、能も、香も、信長の兵を、一人も止められなかった。優れた文化を持っていたから、滅びを免れる――そんな道理は、この世になかった。むしろ、雅に遊ぶうちに、戦う牙を、朝倉は、いつしか失っていたのかもしれなかった。栄えていたものほど、崩れるときは、あっけない。



 ――天正元年(一五七三年)九月、近江・小谷。

 朝倉が滅びれば、次は、浅井だった。

 北近江の小谷城は、もう、孤立していた。背を寄せた朝倉は、消えた。将軍の網も、破れた。城を囲む信長の軍は、日に日に、輪を狭めた。浅井長政の命運は、尽きていた。

 信長は、城へ、使者を送った。

 長政が降れば、一国を与えてもよい、と。妹婿だ。殺したくは、なかったのかもしれない。でも、長政は、応じなかった。義理を選んで朝倉とともに立った男が、その朝倉が滅んだ今、おめおめと、義兄に降ることは、できなかった。

 長政は、妻を、呼んだ。

 お市である。腕には、もう一人ではなく、三人の娘がいた。茶々、初、江――三年の間に、女は、三人の子を産んでいた。長政は、その妻と娘たちを、見た。


「そなたと、娘たちは、ここで死なせはせぬ。兄上のもとへ、戻れ」

「あなたは」

「わしは、残る。浅井の当主として、この城で、果てる。それが、義理を選んだ男の、けじめだ」


 お市は、すぐには、動かなかった。

 夫とともに、死ぬこともできた。武士の妻には、その道もあった。でも、腕の中には、三人の娘がいる。この子らを、燃える城の道連れにするのか。それとも、生かすために、夫を捨てて、城を出るのか。

 お市は、生きる方を、選んだ。

 夫とともに死ぬのは、たやすい。一度、死ねば済む。でも、三人の娘を抱えて、勝った側の兄のもとへ戻り、敵に夫を殺された女として、生きていく――その方が、ずっと重い。お市は、その重い方を、引き受けた。生き延びて、この子らに、血を継がせる。それが、今、自分にできる、ただ一つのことだった。


「娘たちは、わたくしが、生かします。あなたの血を、絶やしませぬ」


 お市は、それだけ言って、三人の娘を連れ、城を、出た。

 長政は、見送った。

 妻と娘たちが、城門を抜けて、兄の陣へ向かうのを、見届けてから、長政は、城の奥へ戻った。父・久政も、すでに自害していた。長政も、腹を切った。二十九の若さだった。義理に殉じた、まっとうな武士の、まっとうすぎる最期だった。

 小谷の城は、落ちた。

 北近江に根を張った浅井の家は、三代で、絶えた。

 でも、信長の冷たさは、女と娘だけを、見逃した形になった。長政には、男の子も、いた。万福丸という。まだ、年端もいかない子だ。信長は、その子を、探し出させ、殺させた。浅井の血を継ぐ男子を、根から、断ったのである。妹の娘は生かし、妹婿の世継ぎは殺す。情と非情の、線の引き方が、この男には、あった。

 お市は、三人の娘とともに、兄のもとへ、戻った。

 茶々、初、江。この三人の娘の血が、後の世を、大きく動かすことになる。一人は、天下人となる男の子を産み、一人は、また別の家の妻となり、一人は、徳川の将軍の母となる。浅井の血は、男子を断たれながら、女たちを通して、次の時代の、ど真ん中へ、流れ込んでいく。

 その血が流れ着く先を、この日の小谷の火は、何も語らなかった。

 お市は、ただ、三人の娘を抱いて、焼け落ちる小谷を、振り返らずに、後にした。


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