第6話:燃える山
――元亀二年(一五七一年)九月、近江・比叡山。
比叡の山は、誰も手を出せぬ山だった。
桓武の昔、京の鬼門を守るために、最澄が開いた山である。以来八百年近く、天台宗の総本山として、都の北東に君臨してきた。山には、数えきれぬ堂や塔が並び、僧がいて、学僧がいて、そして、武装した僧兵がいた。
この山は、俗世の力の、外にあった。
いかなる武士も、いかなる将軍も、比叡の山に兵を入れることは、しなかった。仏罰が、恐ろしかったからだ。山を焼けば、祟りがある。神仏が、罰を下す。誰もが、そう信じていた。その畏れが、この山を、何百年も守ってきた、いちばん厚い城壁だった。
その山が、信長に背いた。
姉川で退いた浅井と朝倉が、比叡の山に、背を寄せた。山は、それをかくまった。信長は、山に使者を送った。織田に味方せよ、それが嫌なら、せめて中立を保て、寺の領地はそのまま認める、と。応じぬなら、堂や塔から仏像まで、ことごとく焼き払う、と。
山は、応じなかった。
七百年、誰も手を出さなかったという事実が、山に、信長の言葉を軽く見せた。あの成り上がりが、まさか、本当に仏の山を焼くはずがない。誰もが、そう高をくくった。
信長は、山を、囲んだ。
九月の十二日、織田の軍は、麓の坂本から、火を放ちながら、山を登った。堂が燃え、塔が燃え、経を納めた蔵が燃えた。逃げ惑う僧を、学僧を、女を、子を、兵は斬った。山に住むあらゆる命が、火と刃の前に、なすすべもなかった。
仏罰は、下りなかった。
火は、ただ、燃えた。雷も、地揺れも、起きなかった。仏は、自分の山が焼かれるのを、黙って見ていた。あるいは、初めから、いなかったのかもしれなかった。七百年、人の心を縛ってきた畏れが、一日で、灰になった。
明智光秀は、その火を、麓から見上げていた。
光秀は、山を焼く軍の、一翼を担う立場にいた。命じられれば、僧を斬る側だった。
光秀の胸の内は、誰にも、わからない。
わかるのは、この男が、世の道理を信じたい男だった、ということだけだ。将軍があり、寺社があり、それぞれが身の程を保つ、古い秩序。その秩序の、いちばん古い柱の一つが、今、目の前で燃えていた。光秀は、それを、止められなかった。止める立場には、なかった。
武士とは、と光秀は、ふと思った。
仏を畏れ、神を敬い、身の程を守る者ではなかったか。でも、その思いの先を、光秀は、口にしなかった。火の粉が、夜空に舞い上がるのを、ただ見ていた。胸の奥で、何かが、静かに、置き場を失っていった。
信長は、山が燃えるのを、平らかな顔で見ていた。
恐れも、ためらいも、その顔にはなかった。役に立たない畏れを、一つ、焼き捨てた。それだけのことだった。
仏に背く者を、信長が許さなかったのは、比叡の山だけではない。
伊勢の長島には、一向宗の信徒たちが、寺を城に変えて、立てこもっていた。一年前、この長島の信徒は、信長の弟・信興を、攻め殺している。信長は、長島を、三度にわたって攻めた。そして最後には、信徒の立てこもる砦を幾重にも囲み、逃げ道を断って、火を放った。
砦の中で、数えきれぬ信徒が、焼かれて死んだ。
降伏を申し出た者も、容赦されなかった。男も、女も、老人も、子も、炎の中に閉じ込められた。その数を、今の世が正しく知ることは、できない。後の記録には、おびただしい数が記されているけれど、どこまでが本当か、わからない。わかるのは、信長が、神も仏も、その前で人を救わないことを、世に見せつけた、ということだ。
念仏を唱えれば、極楽へ行ける。
信徒たちは、そう信じて、死を恐れず、信長に刃向かった。その信心ごと、信長は、焼いた。仏罰を恐れぬ男には、極楽を頼みにする信心もまた、ただの、立ち向かってくる力でしかなかった。
この男は、魔王か。
そう囁く者が、出始めた。第六天魔王。仏の敵。人々は、信長を、そう呼んで恐れた。
でも、その同じ男に、こんな話も、ある。
ある時、信長が、街道の山あいを通りかかった。道のかたわらに、一人の物乞いが、うずくまっていた。手足が思うように動かぬ、体の不自由な男だった。土地の者は、その物乞いを、山中の猿、と呼んで、笑い物にしていた。
信長は、その物乞いを、見た。
馬を止め、しばらく、見ていた。それから、土地の者を呼んで、訊いた。この者は、いつもここにいるのか、と。冬は、どうするのか、と。土地の者は、答えに詰まった。誰も、そんなことを、気にかけたことがなかった。
信長は、土地の者に、命じた。
この者が、飢えも凍えもせぬよう、面倒を見よ、と。木綿を与え、米を与え、年ごとに、この物乞いを養うよう、村に言いつけた。一度の施しではない。何年にもわたって、この体の不自由な物乞いが生きていけるよう、仕組みを、こしらえてやったのである。
仏の山を焼き、信徒を焼き殺した男が、名もなき物乞いの、冬の寒さを、気にかけた。
どちらも、本当のことだった。
残酷さと、細やかさ。そのどちらかが、芝居だったのではない。両方が、同じ一人の男の中に、当たり前のように、同居していた。だからこそ、人は、この男を、つかみ損ねた。魔王と呼んでみても、そう呼びきれない何かが、いつも残った。
信長とは、何者か。
その問いに、答えが出ないまま、男は、次の獲物へ、馬を進めていった。
北近江の、火種が、燃え上がろうとしていた。




