第5話:姉川
――元亀元年(一五七〇年)六月、近江・姉川。
信長は、ひと月で、戻ってきた。
金ヶ崎を命からがら逃げ延びた男は、京で息を整えるなり、すぐに兵を立て直した。裏切った浅井を、討つ。北近江へ攻め上り、浅井の本拠・小谷城の喉元にあたる横山城を、囲んだ。
徳川家康が、再び、三河から駆けつけた。
信長と家康は、姉川という、浅い川を挟んで、陣を敷いた。川の向こうには、浅井の軍と、それを助ける朝倉の軍が、並んでいた。織田が浅井と、徳川が朝倉と、向かい合う形になった。
夜が明けて、両軍は、川へ踏み込んだ。
姉川は、人の膝ほどの深さだった。その浅瀬を、両軍の兵が、水を蹴立てて渡り、ぶつかった。槍が交わり、刀が打ち合い、川の水が、見る間に濁った。
戦は、信長が思うようには、運ばなかった。
浅井の先手に、磯野員昌という将がいた。
北近江の地侍を率いる、猛将だ。この員昌が、織田の陣に、まっすぐ突っ込んできた。一段を破り、二段を破り、織田の備えを、次々と食い破った。後の世は、員昌の働きを、十一段を一段まで崩した、と語り伝える。話に尾鰭はついているだろうけれど、織田の本陣が、危うく食い破られかけたのは、確かだった。
信長は、押されていた。
天下に布く、と印に彫った男が、北近江の一将に、本陣の目前まで攻め込まれている。浅井は、弱兵ではなかった。裏切り者でもなければ、寄せ集めの烏合の衆でもない。北近江の地に根を張り、その地のために戦う、骨のある武士たちだった。栄枯盛衰の振り子の片側が、ここで、いちばん高く振れていた。
その骨の太さは、当主・長政の選んだものから、来ていた。妹婿の縁を捨て、天下へ伸びゆく信長を敵に回してでも、長政は、父祖の代からの朝倉への義理を、取った。利を捨て、義理を選んだ当主の覚悟が、磯野員昌の槍の穂先にまで、伝わっていた。員昌が織田の本陣へ突き込むその一突きは、長政の選んだ「義理」が、刃の形になって、信長へ突きかかったものだった。
信長の旗が、揺れた。
あと一押しで、本陣が崩れる。員昌の槍は、そこまで迫っていた。
川の左手では、徳川の軍が、朝倉とぶつかっていた。
三河の兵は、強かった。家康の下で、何度も死線をくぐってきた者たちである。徳川勢は、朝倉を押し返し、ついに、その備えを崩した。崩れた朝倉を追ううちに、徳川の一隊が、横合いから、浅井の側面へ回り込んだ――と、後の世は語る。家康の家臣・榊原康政が、浅井の脇腹を突いて、戦の流れを変えた、と。
もっとも、それが勝ち負けの決め手だったかどうかは、確かではない。
その話のあらましは、徳川の世になってから、家康の手柄を讃える筆によって、整えられたものでもある。姉川で何が決め手だったのか、本当のところは、川の濁りとともに、流れて消えた。確かなのは、織田と徳川が、一度は浅井朝倉に押されながら、最後に持ちこたえ、押し返したことだけだ。
日が高くなるころ、浅井朝倉は、退いた。
磯野員昌も、深く突き込んだ陣から、引き上げた。浅井は小谷へ、朝倉は越前へ、それぞれの国へ、兵を返した。姉川の浅瀬には、両軍の亡骸が転がり、水は、長く濁ったままだった。血で川が染まった、とも伝わるけれど、それも、後の世の筆の彩りだろう。
信長は、勝った。
勝ったけれど、浅井も朝倉も、滅んではいなかった。小谷の城は、なお健在で、越前の一乗谷も、雅を保っていた。姉川は、勝負を決した戦では、なかった。火種は、消えずに、北近江と越前に、くすぶり続けた。
信長は、その火種を、これから三年、追い続けることになる。
そして、退いた浅井朝倉が、背を寄せた先に、一つの山があった。
京の鬼門を守る、最も古い聖地。比叡の山である。
その山が、浅井朝倉をかくまい、信長に弓引く僧兵を抱え込んだとき、男は、誰も手をつけなかった一線へ、足をかけることになる。
仏の山を、焼く。




