第4話:金ヶ崎
――元亀元年(一五七〇年)四月、越前・敦賀。
信長は、将軍の名で、諸国の大名に、上洛を命じた。
京に来て、将軍に挨拶し、天下の政に従え、と。だが、それが信長に従え、という意味であることは、誰の目にも明らかだった。多くの大名が、形ばかり、使者を送ってよこした。
越前の朝倉義景は、来なかった。
朝倉は、越前一国を百年治めてきた、守護代あがりの名門だ。一乗谷に、京を写したような町を築き、和歌を詠み、能を舞い、公家を招いて雅を競った。北国に、もう一つの京があった。その当主が、成り上がりの信長に呼ばれて、おめおめ京へ出向くいわれはない――朝倉には、その誇りがあった。
信長は、その不参加を、口実にした。
将軍に従わぬ朝倉を、討つ。元亀元年の春、信長は、三万の軍を率いて、若狭から越前へ攻め込んだ。徳川家康も、三河の兵を率いて、これに従った。
軍は、敦賀の手筒山城に、襲いかかった。
力攻めである。柵を破り、堀を越え、城兵を斬り伏せて、一日で落とした。城に拠った千を超える者が、討たれたと伝わる。続く金ヶ崎城は、朝倉の将が、戦わずに退いた。信長の軍は、海沿いを北へ、一乗谷を目指して進んだ。朝倉の本拠まで、あと一息だった。
その一息のところで、報せが、来た。
浅井長政が、背いた、と。
信長は、最初、それを信じなかった。
「嘘を申すな」
浅井長政は、信長の、妹婿である。
妹のお市を嫁がせ、北近江の浅井と、固く結んだはずだった。その浅井が、背くはずがない。背けば、今越前にいる信長の軍は、前を朝倉、後ろを浅井に挟まれる。袋の中の鼠になる。長政が、それをやる――信長は、にわかには、呑み込めなかった。
でも、報せは、二度、三度と、重なった。
浅井の兵が、南近江で動いている。信長の退き道を、ふさぎにかかっている。間違いではなかった。妹婿は、確かに、背いた。
信長は、一瞬、黙った。
それから、いつもの、短い言葉を吐いた。
「是非に及ばず」
善も悪も、もう言っている場合ではない。起きたことは、起きた。あとは、どう生き延びるかだけだ。信長は、即座に、退却を決めた。一乗谷を、目の前で、捨てた。獲りかけた獲物を、惜しげもなく手放し、身一つで逃げる速さ――それが、この男の強さだった。
でも、退くにも、しんがりがいる。
追ってくる朝倉と、ふさぎにかかる浅井の間を、信長本隊が駆け抜けるには、誰かが後ろで踏みとどまり、敵を食い止めねばならない。それは、ほぼ、死ぬ役だった。
木下藤吉郎が、進み出た。
「そのしんがり、それがしに、お任せを」
草履取りあがりの、小男だ。
顔は猿に似て、よく笑い、よく喋る。家柄もなく、田もなく、ただ働きと知恵だけで、ここまで上がってきた男だった。その藤吉郎が、誰もが嫌がる死に役を、自分から買って出た。手柄を立てる機会は、命を捨てる場所にしか、転がっていない。藤吉郎は、それを知っていた。
明智光秀も、池田勝正も、しんがりに加わった。
信長は、わずかな供だけを連れ、朽木の谷を抜けて、京へ走った。朽木の谷を治める国人は、いつ信長を裏切ってもおかしくなかった。その谷を、信長は、肝を冷やしながら駆け抜けた。背後では、藤吉郎たちが、追いすがる敵を、必死に食い止めていた。
金ヶ崎の退き口、と後の世は呼ぶ。
藤吉郎は、死ななかった。
巧みに兵を退き、敵を欺き、味方の犠牲を抑えて、生きて京へ帰り着いた。死に役を引き受け、しかも死なずに武名を上げる――この男の底知れなさが、初めて、はっきりと光った場面だった。信長は、藤吉郎を、覚えた。家柄なき草履取りが、一方面を任される器かもしれぬ、と。
その同じころ、北近江の小谷の城では、一人の女が、幼い娘を抱いていた。
お市だ。
信長の妹であり、浅井長政の妻だった。腕の中の娘は、茶々という。生まれて間もない、まだ何も知らない赤子だ。
お市は、夫が兄を裏切ったことを、知っていた。
城の内が、にわかに慌ただしくなり、兵が集められ、男たちの顔から血の気が引いた。それで、わかった。夫・長政が、兄・信長に、弓を引いたのだ、と。
長政が、部屋に来た。
若く、誠実な顔をした男だった。妻に向かって、長政は、言葉を選びながら、言った。
「すまぬ。そなたの兄上に、刃を向けることになった」
「なぜ」
お市は、それだけ訊いた。
「朝倉とは、父の代からの、古い縁がある。浅井が、今の浅井であるのは、朝倉に支えられたからだ。その朝倉を、断りもなく攻める――わしには、信長殿のやり方を、見過ごせなかった」
長政は、裏切り者の顔を、していなかった。
義理を、選んだ男の顔だった。世話になった家を見捨てれば、武士の信が立たぬ。たとえ妻の兄が相手でも、恩ある朝倉を、背中から討たせるわけにはいかない。長政は、そう信じていた。その信じ方は、古い武士の、まっとうな信じ方だった。
お市には、それがわかった。
わかるからこそ、どちらにも、つけなかった。兄が正しいのか、夫が正しいのか――そういう問いではない。兄は兄のやり方で正しく、夫は夫の義理で正しく、その二つの正しさが、真正面からぶつかった。そして、その間に、自分と、この赤子がいる。
お市は、茶々を、強く抱いた。
この子の父と、この子の伯父が、殺し合う。どちらが勝っても、この子は、勝った側の血に、負けた側の血を、半分ずつ抱えて生きていく。お市は、そのことを、誰よりも早く、悟っていた。
女は、泣かなかった。
蝮の世も、足利の世も、武士の義理も、女の腕の中までは、守ってくれない。お市は、それを知っていた。知った上で、ただ、子を抱く腕に、力を込めた。
窓の外で、浅井の旗が、北近江の風に、鳴っていた。




