第1話:天下布武
――永禄十年(一五六七年)、美濃・稲葉山。
城が、落ちた。
長良川の水を見下ろす山の上に、斎藤の城はあった。三代がかりで美濃を盗んだ蝮の城だ。その城の主は、今、舟で川を下って逃げていく。斎藤龍興。蝮の孫にあたる若者だった。
織田信長は、落ちた城の、いちばん高いところに立っていた。
眼の下に、濃尾の平野が広がっている。木曾、長良、揖斐の三つの川が、銀の筋になって平野を裂き、その向こうに、自分の生まれた尾張があった。父祖が、何代もかけて獲ろうとして獲れなかった国を、信長は、十年で獲った。
風が、城跡の焼け跡の匂いを運んできた。
信長は、それを、特に何とも思わない顔で吸った。獲った、という昂りも、ない。次にどこを獲るか。頭の中は、すでにそこへ移っている。
背後で、一人の僧が控えていた。
沢彦宗恩という。信長が学問の師として近くに置いている、禅の僧である。信長は振り向かずに言った。
「この井ノ口という名は、気に入らぬ。古い」
「では、名を改められませ」
沢彦は、待っていたように答えた。
「昔、唐土の周の文王は、岐山に拠って天下を平らげました。孔子は、曲阜で学を興しました。岐山の岐、曲阜の阜。あわせて、岐阜と――いかがか」
信長は、平野を見たまま、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「岐阜。よかろう」
その一言で、井ノ口は、岐阜になった。
千年、その土地を呼んできた名が、男の一言で消えた。誰も、異を唱えなかった。
城の一室に、信長は印判師――判を彫る職人を呼んだ。
判を、彫らせるのである。これからこの男が出す書状の、すべてに捺される印。沢彦が選んだ四つの文字を、信長は紙に書いて、印判師の前に置いた。
天下布武、とあった。
「これを、彫れ」
印判師は、その四文字を、おそるおそる見た。
武をもって、天下に布く。あまりに大きな言葉だった。この男は、尾張と美濃の、二国の主にすぎない。京には将軍があり、東には武田と上杉があり、西には毛利がある。その男が、天下、と彫らせる。
もっとも、この時の「天下」が、後の世の言う日本国の隅々までを指していたかどうかは、わからない。畿内の、将軍を中心とした政の秩序――それを指す言葉だった、とも言われる。信長自身が、どこまでを見ていたのか、それを口にすることは、なかった。
ただ、武、の一文字だけは、はっきりしていた。
武をもって、布く。理屈でも、徳でも、血筋でもない。力で、敷く。蝮の油売りが、血筋でも家柄でもなく天下を動かせる者こそ武士だと言った、その先を、この男は、武士の世そのものに広げようとしていた。
印が、できた。
朱を含ませ、白い紙に捺す。天下布武の四文字が、血の色で、紙の上に立った。信長は、それを少し離して眺め、満足とも不満ともつかぬ目で、うなずいた。
その夜、信長は、一通の古い書状を、文箱から出させた。
紙は、もう黄ばんでいる。十一年前、蝮が長良川で死ぬ、そのわずか前に書かれたものだった。差出人は、斎藤道三。美濃の蝮と呼ばれた、今逃げていった龍興の、祖父である。
譲り状だった。
美濃一国を、婿である信長に譲る――そう記されている。後の世には、この書状が本物かどうかを疑う者もある。蝮が、本当にこれを書いたのか。でも、書かれていようといまいと、起きたことは、変わらない。蝮が「あの男にやる」と言った国を、その婿が、今、現に獲った。
信長は、書状を、灯にかざした。
十四年前、正徳寺で、二人は初めて会った。信長は、わざと、うつけの形で寺に乗りつけた。腰には荒縄、髪は茶筅に結い、人を食ったなりだった。でも、会見の座に出るときだけ、別人のように装いを改めて現れた。道三は、それを、ひとことも逃さず見ていた。
会見のあと、道三は供の者に、こう言ったという。
「無念なことよ。わしの子らは、いずれ、あのうつけの門の外に、馬をつなぐことになろう」
あのとき、蝮は、すべてを見抜いていた。
息子たちが信長に膝を屈する日を、十四年前に、言い当てていた。そして、今、その息子の子――龍興が、川を下って逃げた。
信長は、書状を文箱に戻した。
「蝮の見立ては、正しかったな」
誰に言うともなく、つぶやいた。
褒めているのか、勝ち誇っているのか、その声からは、わからなかった。
襖の向こうに、人の気配があった。
帰蝶である。道三の娘であり、信長の正室だった。父の国が婿のものになった、その夜に、女は、灯のそばに座っていた。
信長は、襖を開けさせた。
「そなたの父の国だ」
帰蝶は、すぐには答えなかった。
父・道三は、十一年前、長良川の河原で死んでいる。実の息子・義龍に背かれ、その軍に討たれた。蝮を殺したのは、蝮の血だった。その同じ長良川を、今、孫が逃げていく。父が築き、子が奪い、孫が失った国。それが、夫の手に落ちた。
帰蝶の目に、何が映っていたか。
悲しみか、安堵か、あるいは、父の血が遠い他人の手で報われたことへの、ひやりとした納得か。女は、それを顔に出さなかった。蝮の娘だ。出さないことを、知っていた。
「父は」
と、帰蝶は、ようやく口を開いた。
「あなた様が、いつかこうなると、申しておりました。門の外に馬をつなぐ、と。父の見立ては、外れませんでした」
「外れぬ蝮だった」
信長は、それだけ言った。
夫婦は、しばらく、灯を挟んで黙っていた。互いに、相手の腹を読むことに長けた二人だった。だからこそ、言葉は、少なくて済んだ。
この女が、その後どう生きたのか、いつ死んだのか、確かなことは、何も伝わっていない。記録は、帰蝶を、ここで手放す。ただ、美濃が信長のものになった夜、蝮の娘が、その座にいた――それだけは、書き留めておく。
岐阜の城下は、その年から、見たことのない町に変わっていった。
信長は、家臣たちを、城のまわりに住まわせた。それぞれの領地ではなく、城下に。武士は、自分の村に住み、自分の田を耕し、戦のときだけ村の百姓を率いて出るもの――それが、何百年も続いた武士のかたちだった。信長は、それを、崩しにかかった。
田を、持たぬ兵。
城下に住み、給金の米で食い、季節を問わず動ける兵。種まきだから戦をやめる、刈り入れだから国に帰る、ということのない兵。それを、信長は、少しずつ増やしていった。一度に変えたわけではない。武士と田の縁は、そう簡単には切れない。でも、向きは、はっきりしていた。兵から、田を、引き剥がす方へ。
古い足軽の中には、それを、薄ら寒い思いで見ている者がいた。
一人の老いた組頭がいた。尾張の村の出で、信長の祖父の代から、織田に従ってきた男である。腰の刀は、父から受け継いだものだった。その男は、城下に与えられた小さな屋敷の上がり口に座って、節くれだった自分の手を、見ていた。
その手は、鍬を握る手だった。
戦のないとき、男は村に帰り、田を打った。田があったから、戦って守るものがあった。御恩として土地を頂き、奉公として槍を取る。それが、男の知っている、武士だった。
でも、城下に住めと言われた。
田は、もう、ない。給金の米で、食う。守るべき自分の土地は、なくなった。では、何のために槍を取るのか。男には、その答えが、うまく言えなかった。
「わしらは」
と、男は、隣に座る若い兵に、ぽつりと言った。
「何のために、戦うのかのう」
若い兵は、きょとんとした顔をした。
この若者は、田を持ったことがない。城下で米をもらい、戦で手柄を立てれば、上に行ける。それだけのことだった。何のために、という問いの意味が、わからない。
「殿が、戦えと仰せだから、戦うのでは」
若者は、当たり前のことのように言った。
老いた組頭は、それ以上、何も言わなかった。言っても、通じないことが、わかったからだ。武士とは――と、男は言いかけて、飲み込んだ。その先の言葉を、この若者は、必要としていない。あるいは、もう、その問い自体が、古いものになりつつあった。
男は、節くれだった手で、刀の柄を、そっと撫でた。
父の刀だった。だが、その父が守った田は、もう、ない。
岐阜の城の上では、信長が、次の地図を見ていた。
京である。
美濃を獲った今、信長と京のあいだを遮るものは、ほとんどなかった。京には、諸国をさすらう一人の貴公子がいた。足利の血を引く、足利義昭。次の将軍になりたがっている男だ。その男を、奉じる。奉じて、京に入る。それが、天下布武の、次の一手だった。
乱世の火は、応仁このかた百年、国々を焼き続けていた。その火を、最後に己の手に握り、武士の世そのものを終わらせることになる男が、今、岐阜にいた。
信長は、地図の上の京に、指を置いた。
「次は、ここだ」
短く言って、地図を巻いた。
天下布武の印が、文箱の中で、朱の色を、静かに乾かしていた。




