第7話:三方ヶ原
――元亀三年(一五七二年)十二月、三河・三方ヶ原。
信玄が、ついに、西へ、動いた。
元亀三年、信玄は、大軍を率いて、甲斐を発した。狙いは、西。京を目指す、上洛の道である。三国同盟で背後を固め、信濃を呑み、国を富ませ、家臣団をまとめ――二十年をかけて準備した武田の全力を、信玄は、今、天下へ向けて、解き放った。
その西上の道に、立ち塞がる者がいた。
徳川家康。
三河の若い大名である。かつて、今川の人質として、駿府で育ち、桶狭間の後に独立した、あの竹千代である。家康は、織田信長と結び、東海に、力を伸ばしていた。信玄の西上は、その家康の領国を、踏みつけて、進むことになる。
家康は、迎え撃つことを、決めた。
無謀だった。
信玄の軍は、当代最強と謳われる、武田の組織である。対する家康は、まだ若く、兵も、はるかに少ない。籠城して、やり過ごすのが、賢明だった。家臣たちも、城を出るな、といさめた。
でも、家康は、出た。
三方ヶ原の台地で、武田の大軍に、挑みかかった。自分の領国を、素通りされる屈辱に、若い家康は、耐えられなかった。
信玄は、その家康を、待っていた。
まとめあげられた、武田の軍が、整然と、家康の軍を、迎えた。野での戦における、武田の組織の戦は、芸術の域にあった。家康の軍は、ぶつかった瞬間に、武田の陣形に、呑み込まれた。
一方的な、戦だった。
家康の軍は、打ち砕かれた。多くの家臣が、討たれ、家康自身も、命からがら、浜松の城へ、逃げ帰った。生涯で、最大の、敗北だった。信玄の強さを、家康は、骨の髄まで、思い知らされた。
でも、家康は、この完敗から、学んだ。
強い者に、無謀に挑めば、こうなる。この敗北を、家康は、生涯、忘れなかった。忘れぬために、自らの惨めな姿を、心に刻んだ。そして、二度と、同じ過ちは、犯すまいと、誓った。この男が、最後に天下を取るのは――勝ち続けたからではなく、この三方ヶ原のような負けから、誰よりも、学んだからだった。
三方ヶ原で家康を打ち砕いた信玄は、なお、西へ、進もうとした。
京は、近づいていた。武田の全力をもってすれば、あるいは、信長すら――。
でも。
そこで、信玄の体が、動かなくなった。
病だった。
西上の途中、信玄は、病に倒れた。重い病だった。もはや、軍を進めることは、できない。信玄は、無念のうちに、軍を、甲斐へ、引き返させた。
その帰り道、信濃の駒場で。
武田信玄は、世を去った。
貧しい山国に生まれ、父を追放し、国を富ませ、信濃を呑み、当代最強の軍を築き、天下を目前にした男。その夢は、京を目前にして、自らの病の前に、潰えた。
死の前、信玄は、言い遺した。
「わが死を、三年、隠せ」
自分の死が知れれば、武田は、四方の敵に、つけ込まれる。三年、死を秘し、その間に、家を、固めよ。組織の人らしい、最後の指図だった。
国を保つことに生涯を捧げた男は、死してなお、家を保つことを、案じていた。
甲斐の虎は、天下に届かず、信濃の山道で、死んだ。




