第4話:関東越山
――永禄四年(一五六一年)、関東・小田原。
川中島で信玄と向かい合う一方で、謙信は、もう一つの戦を、戦い続けていた。
関東である。
関東管領・上杉憲政を、奉じている。その憲政の願いは、ただ一つ――関東を、北条から、取り戻すこと。謙信は、その義を、果たすべく、幾度も、関東へ、兵を出した。
越山、と呼ばれた。
越後から、雪の三国峠を越えて、関東へ、軍を、進める。冬、雪が深く積もる前に、あるいは雪を衝いて、謙信は、峠を越えた。義のために、雪の山を越える。それは、自分の利を求めぬ男だからこそ、できることだった。
永禄四年、謙信の関東越山は、頂点に達した。
関東の諸将を呼び集め、その大軍を率いて、謙信は、北条の本拠――小田原城へ、攻め寄せた。
小田原。
かつて、早雲が計略で奪い、氏綱、氏康と、三代をかけて、関東一の堅城に育て上げた、後北条の都である。鎌倉以来の家格を持たぬ、成り上がりの家が築いた、新しい関東の中心。その小田原を、鎌倉以来の名門・上杉を奉じた謙信が、囲んだ。
古い権威と、新しい実力。
その二つが、小田原城を挟んで、向かい合った。
でも、小田原城は、落ちなかった。
北条氏康は、城に籠もり、ひたすら、守った。早雲以来の堅城は、謙信の大軍をもってしても、容易には、破れなかった。謙信は、城を囲んだまま、いたずらに、日を、過ごした。
謙信は、その囲みの最中、鎌倉へ、入った。
鶴岡八幡宮。
頼朝が、武士の世を開いた、その社の前で。謙信は、上杉憲政から、正式に、上杉の家名と、関東管領の職を、受け継いだ。鎌倉以来の名門・上杉の継ぐ者として、関東管領として、謙信は、八幡大菩薩の前に、立った。
名分は、整った。
でも、現実は、苦かった。
謙信は、小田原を落とせぬまま、囲みを解いた。そして、越後へ、引き上げた。雪国の謙信は、関東に、長くは留まれない。冬が来れば、雪が峠を閉ざす。国を空ければ、背後の信濃で、信玄が、動く。謙信は、関東に、根を下ろすことが、できなかった。
謙信が引き上げると。
奪った城は、また、北条のものに、戻った。
謙信が越山すれば、関東の諸城は、上杉に靡く。謙信が越後へ帰れば、北条が、また取り返す。次の年、謙信は、また越山する。また靡く。また帰る。また取り返される。
奪っては、返す。
その、果てしない繰り返しが、謙信の関東出兵の、実際だった。
謙信は、十数年、これを、続けた。
常陸では、小田氏治という、戦下手の名門当主の城も、この越山の途中で、謙信に、一度踏み潰された。でも、謙信が去れば、その城もまた、村人の手引きで、主のもとへ、戻っていった。謙信が奪い、去れば戻る。関東は、謙信にとって、どこまでも、手応えのない、雪の上の足跡のような戦場だった。
なぜ、謙信は、これを、続けたのか。
土地は、ひとかけらも、残らない。富も、得られない。苦労は多く、得るものは、ない。普通の大名なら、とうに、見切りをつける、無駄働きの戦だった。
でも、謙信は、やめなかった。
義が、そこに、あったからだ。
関東管領として、憲政の願いを、果たす。理不尽に土地を奪う北条を、討つ。それが、義であり、謙信にとって、戦う理由の、すべてだった。土地が残らずとも、義は、立つ。
奪うためではなく、義のために、戦う。
土地をひとかけらも残さぬ、その純粋さこそが、謙信の戦の、正体だった。
甲斐の虎が、信濃を呑んで、国を肥やしていく、その同じ年月を。
越後の龍は、関東で、何も残らぬ義の戦を、雪を越えて、繰り返していた。




