第1話:父を追う日
――天文十年(一五四一年)、甲斐。
甲斐は、貧しい国だった。
四方を、山に囲まれている。平地は少なく、その少ない平地を、川が、暴れた。釜無川と御勅使川。二つの川は、雨のたびに溢れ、せっかくの田を、押し流した。海もない。塩は、よその国から、買うしかない。山ばかりで、米の穫れぬ国。それが、甲斐だった。
その甲斐を、力で一つにまとめた男がいた。
武田信虎。
強引な男だった。逆らう国人を、容赦なく潰し、甲斐を、武田のもとに、束ねた。でも、その強引さが、家臣にも、領民にも、深い不満を、残していた。重い軍役、苛烈な振る舞い。甲斐の人々は、この当主に、疲れていた。
信虎には、嫡男がいた。
晴信。のちの、信玄である。
天文十年、晴信は、二十一歳になっていた。
その晴信が、ある日、信じがたいことを、やってのけた。
父・信虎を、国から、追放したのである。
信虎が、娘の嫁ぎ先である駿河の今川を訪ねた、その隙に。晴信は、国境を、閉ざした。父が、甲斐へ帰る道を、断った。信虎は、駿河に、足止めされ、二度と、甲斐の地を、踏めなくなった。
子が、父を、国から、追い出した。
それは、武士の道に照らせば、大変な、不孝だった。親に弓を引く。これ以上の、罪深い行いは、ない。
でも、晴信は、それを、やった。
なぜか。
一つには、家臣と領民の、信虎への不満が、限界に来ていたからだ。誰もが、当主が代わることを、望んでいた。晴信は、その声に、応えた。父を追い、自らが立つことで、家臣の支持を、一身に集めた。
でも、晴信の腹の底には、それだけではない、もっと冷たいものが、あった。
国を、富ませる。
貧しい甲斐を、立て直し、強い国にする。そのためには、信虎の、力ずくのやり方では、駄目だ。もっと、賢く、細やかに、国を、切り盛りしなければならない。父は、その妨げに、なる。
ならば、切る。
孝も、情も、国のためなら、切る。
晴信は、そういう男だった。父を追放したことを、生涯、悔いたという話は、伝わらない。それは、冷たいというより、徹底していた、というべきだった。国を富ませるという、ただ一つの目的のために、晴信は、肉親すら、駒のように、動かした。
甲斐の、新しい当主となった晴信は、その国を、見渡した。
暴れる川。痩せた田。乏しい米。だが、山には、金が、眠っていた。甲州の金山。そこから掘り出される金が、貧しい甲斐の、隠れた富だった。
晴信の眼が、光った。
この川を、治める。この田を、富ませる。この金を、活かす。法を定め、道を引き、民を、まとめあげる。戦は、その先にある。戦に勝つためにこそ、まず、国を、強くする。
戦場の武勇ではなく、国の切り盛り。
それが、晴信の――信玄の、武士の道だった。
父を追放した、その手で、信玄は、貧しい山国を、当代屈指の強国へと、作り変えていく。
甲斐の虎の、二十年が、ここから始まる。




