第7話:鬼の名残
――天正十五年(一五八七年)以降、土佐。
土佐へ帰った元親は、別人に、なっていた。
戸次川から戻った主君を見て、家臣たちは、息を呑んだ。
あの、土佐の出来人と呼ばれた、寛い名君は、どこにも、いなかった。降した敵さえ許して使った、あの大きな器は、消えていた。代わりに、そこにいたのは、何にでも苛立ち、人を疑い、些細なことで荒れ狂う、苛烈な男だった。まだ五十にもならぬのに、その背は、急に老け込んで見えた。
信親を失った悲しみは、元親の中で、怒りに、変わっていた。
元親は、跡継ぎを、決めねばならなかった。
死んだ信親には、娘しか、いなかった。順当にいけば、信親の弟――次男か三男が、継ぐべきだった。でも、元親は、末の、四男・盛親に、家督を、継がせようとした。信親の娘を、盛親に娶せ、その血を繋ぐ、という名目だった。
家中は、これに、反対した。
順序が、違う。次男や三男を差し置いて、末子に継がせれば、家は、乱れる。古くからの家臣たちは、元親を、いさめた。
そのいさめを、元親は、許さなかった。
反対した重臣の一人、吉良親実を、元親は、切腹させた。長宗我部の一族でもある、有能な男だった。でも、盛親への家督相続に反対したというだけで、元親は、これを、死に追いやった。そのまきぞえで、何人もの家臣が、消された。
かつて、敵さえ許した男が。
今は、身内さえ、許さなかった。
家臣たちは、震え上がり、口を、噤んだ。誰も、もう、元親に、いさめの言葉を、言わなくなった。長宗我部の家中は、暗く、冷たく、沈んでいった。
元親は、変わってしまった。
いや――元親から、何かが、奪われてしまった、と言うべきだった。
四国を、奪われた。それでも、まだ、立ち直れた。
でも、信親を、奪われて。
元親の中の、何か――夢を見る力、人を信じる力、寛くいられる力――その根が、戸次川で、断ち切られていた。残ったのは、抜け殻のような体と、その中で、ひたすら荒れ狂う、怒りだけだった。
ここに、武士の世の、もう一つの残酷があった。
武士の世の残酷は、滅ぼされることでは、なかった。
今川義元は、桶狭間で、一日にして滅んだ。でも、滅びるのは、ある意味で、潔い。終わるからだ。
元親は、滅ぼされなかった。
土佐一国を、与えられ、生かされた。でも、夢だけを、奪われた。四国の覇権も、最愛の嫡男も、人を信じる心も、すべてを奪われて、それでも、なお、生かされた。滅びることも、許されずに。
夢だけ奪われて、生かされること。
それが、武士の世の、いちばん深い残酷だった。
元親は、その残酷の中で、晩年を、過ごした。
かつて、田の畦に槍を立て、法螺貝で駆けつけた、一領具足の男たち――鍬助のような地侍たちは、それでも、土佐の田を、耕し続けた。主君が壊れても、田は、残る。誰かが、その田を耕し、稲を実らせ、戦があれば、また槍を取る。武士なのか百姓なのか、答えの出ぬまま。
土佐の土は、変わらず、そこに、あった。
でも、その土の上に立つ、長宗我部の家は――元親が末子にこだわって歪ませた、その家督は、やがて、もう一つの悲劇を、生むことになる。
四男・盛親。
父が、家を歪めてまで継がせた、その末子が、大坂の陣で、長宗我部の家に、最後の幕を引く。
今は、ただ、夢を奪われた一人の鬼が、暗く荒れながら、土佐の山の中で、老いていく。
四国の鬼の夢は、海の向こうの、桁違いの理屈の前に、砕けた。
そして、その砕けた夢の、いちばん深いところに、二十二歳で死んだ、出来すぎた息子の顔が、いつまでも、沈んでいた。
第六章 四国の鬼——長宗我部元親 ――完。




