第5話:十万の海
――天正十三年(一五八五年)夏、四国。
海が、埋まった。
秀吉の、四国攻めである。
その軍勢は、十万余とも、号された。元親が、二十五年かけて、土佐の貧しさの中から、かき集めてきた兵の、何倍もの数が、一夏のうちに、四国の沿岸へ押し寄せた。
桁が、違った。
元親の戦は、土佐の理屈だった。一領具足を法螺で集め、山を駆け、少ない兵で大軍を破る。その理屈で、元親は、四国を呑んだ。でも、秀吉の戦は、中央の理屈だった。畿内の富を背に、十万の兵を、何の苦もなく集め、三つの方面から、同時に、上陸してくる。
讃岐へ、阿波へ、伊予へ。
三方から、秀吉の大軍が、なだれ込んだ。
元親の兵は、各地で、戦った。でも、戦えば戦うほど、数の差が、残酷に、現れた。一つの城を守り抜いても、隣の城が、十倍の兵に、呑まれていく。土佐の動員力をもってしても、十万を、受け止めることは、できなかった。
その伊予方面の、秀吉軍を率いていたのは――毛利だった。
小早川隆景。
毛利元就の、三男。「天下を望むな」と遺した元就の、その教えを最もよく継いだ、知恵の将である。家を保つために、天下を争わぬと決めた毛利の家が、今や、天下人・秀吉の、忠実な道具として、四国の夢を、砕く側に回っていた。
元親は、その報せを聞いて、苦い思いを、噛んだ。
天下を争わぬと決めた家は、生き延びた。そして、その生き延びた家が、天下を争おうとした自分を、踏み潰しに来る。毛利の自制と、長宗我部の野心。その明暗が、今、伊予の海で、向かい合っていた。
家中は、割れた。
最後まで戦うべきだ、と説く者がいた。土佐の山に籠もれば、十万といえど、容易には攻めきれぬ、と。
降るべきだ、と説く者もいた。これ以上戦えば、四国の民が、焼け野原になる。秀吉の力は、信長の比ではない。勝てぬ戦を続けて、家を、滅ぼすのか、と。
元親は、決断した。
降る。
四国の鬼は、膝を、屈した。
秀吉に、降伏を申し入れ、その軍門に、下った。秀吉は、元親の降伏を、受け入れた。そして、裁定を、下した。
長宗我部に、許す領地は――土佐一国。
阿波も、讃岐も、伊予も、すべて、取り上げられた。元親が、二十五年かけて、血で呑んだ四国は、わずか数か月の戦の後、たった一国に、削られた。元親の手元に残ったのは、最初の、土佐だけ。すべてが、振り出しに、戻った。
夢の、第一の喪失だった。
元親は、土佐へ、帰った。
四国の覇者は、ふたたび、土佐一国の主に、戻っていた。
それでも、と、元親は、自分に言い聞かせた。
まだ、信親がいる。
四国は、失った。でも、土佐は、残った。そして、あの出来すぎた嫡男が、いる。あの子の代に、また、やり直せばよい。長宗我部の家が続く限り、夢は、潰えてはいない。
元親は、そう信じて、土佐の山を、見ていた。
その信親を、わずか一年の後に、失うことになるとは――このとき、元親は、知らなかった。




