第5話:厳島
――弘治元年(一五五五年)、安芸・厳島。
陶晴賢は、餌に、食いついた。
毛利が、厳島に築いた宮尾城。その「弱み」を、踏み潰すべく、陶は、自ら、大軍を率いて、厳島へ渡った。
二万。
陶の軍は、二万を、号した。対する毛利の兵は、その数分の一に、過ぎない。陶は、勝利を、確信していた。狭い島の、小さな城。大軍で、囲んで、押し潰せば、終わる。陶の大軍は、厳島に、上陸し、宮尾城を、囲んだ。
その瞬間、陶は、罠の中に、自ら、足を、踏み入れていた。
二万の大軍は、厳島の、狭い地に、ひしめいた。広く、布陣する余地は、ない。兵は、密集し、身動きが、取りにくい。大軍の利は、この島では、すでに、半ば、殺されていた。
元就は、本土から、その島を、見ていた。
あとは、渡るだけだった。でも、その船渡しに、一つ、大きな壁が、あった。
海である。
厳島へ、軍を渡すには、大量の、船が、要る。そして、その海を、押さえていたのは、毛利ではなかった。村上水軍――瀬戸内海に、君臨する、海賊衆だった。
元就は、その村上水軍の、頭領・村上武吉に、使者を、送っていた。
海賊衆は、陸の大名の、家来では、ない。海の、独立した勢力である。彼らは、自らの利で、動いた。元就は、その村上を、味方に、引き入れることに、賭けていた。村上が、来なければ、毛利の軍は、海を、渡れない。すべてのはかりごとが、水の泡になる。
決戦の、前夜。
村上水軍の、船団が、現れた。
海賊衆は、来た。瀬戸内の、無数の船が、毛利の船渡しのために、集まった。海の、もう一つの武士たちが、元就の側に、ついた。陸の謀将と、海の賊。その手が、結ばれた。
そして、その夜。
天が、味方した。
暴風雨が、来た。
たたきつける雨と、荒れ狂う風。海は、白く、波立ち、視界は、闇に、塗りつぶされた。常人なら、とても、船を出せる夜では、ない。
でも、元就は、その嵐を、衝いた。
嵐の中、村上水軍の船に、毛利の兵を乗せ、闇の海を、厳島へ、渡った。嵐が、毛利の接近を、隠した。陶の軍は、まさか、この暴風雨の夜に、敵が、海を渡ってくるとは、思っていなかった。島の兵は、雨風に、首をすくめて、油断していた。
夜が、明けた。
嵐が、上がった、その朝。
厳島の、陶の本陣の、背後から。
毛利の軍が、ときの声をあげて、襲いかかった。
奇襲だった。完全な、不意打ちだった。陶の二万は、狭い島で、密集したまま、背後を、突かれた。逃げようにも、島は、狭い。広がろうにも、地が、ない。密集した大軍は、混乱し、味方同士で討ち合い、総崩れになった。海へ逃げようとした兵は、村上水軍の船に、逃げ道を、断たれた。
二万の大軍が、狭い島で、崩れていった。
数の利は、完全に、消えていた。元就が、半年も、一年もかけて、編んできたはかりごと――江良の仲たがい、偽の知らせ、厳島への誘い込み、村上の調略――その、すべての糸が、この朝、一つに手繰り寄せられた。そこへ、嵐という、天の偶然が、加わった。
計算と、運。
その両方を、元就は、味方につけた。
五年の後、尾張の桶狭間でも、天の雨は、寡兵の側に立った。でも、あちらが、追い詰められた者の、一世一代の賭けだったのに対し、厳島の嵐は、賭けではなかった。嵐が来ずとも、罠は、すでに閉じていた。海は村上が押さえ、島には餌が置かれ、大軍は狭い地にひしめいていた。嵐は、仕上げを速めただけである。一夜の賭けで勝つ者と、一年の糸で勝つ者。同じ雨でも、濡れ方が違った。
陶晴賢は、敗れた。
島から、逃れることも、できず、陶は、追い詰められた。主君を殺して、西国の覇者となった、武一筋の猛将。その最期は、しかし、見苦しくは、なかった。陶は、もはやこれまでと、覚悟を決め、自ら、腹を切って、果てた。武人としての、最後の意地だった。
力の理屈を、生きた男が。
知恵の理屈を、生きた男に、敗れて、死んだ。
十五年前、郡山の雪の中へ、毛利を救うために駆けつけた、あの若き猛将の、これが最期だった。救った家に、滅ぼされた。乱世の恩と仇は、これほどに速く、裏返る。
厳島の海は、陶の二万の、亡骸で、埋まった。
この一戦で、毛利は、安芸の一国人から、西国の、大勢力へと、跳ね上がった。三千貫の文官の家が、知恵の限りを尽くして、西国一の大大名の跡継ぎを、討ち取った。
知の合戦の、完成形だった。




