第4話:謀
――天文二十二年(一五五三年)、安芸。
元就の戦は、戦場の、外で、始まっていた。
陶晴賢を、倒す。だが、正面から、ぶつかっては、勝てない。陶の率いる大内の軍は、毛利の、何倍もある。力で、敵わぬなら、知恵で、崩す。元就は、まず、陶の、足元から、切り崩しにかかった。
陶の家臣に、江良房栄という、有能な将がいた。
知恵も武勇も備えた、陶軍の、要のような男である。この男がいる限り、陶軍は、手強い。元就は、この江良を、戦わずして、消すことに、決めた。
元就は、偽の、知らせを、流した。
江良房栄は、ひそかに、毛利に、内通している――という、噂を。巧妙に、証拠めいたものを、添えて、陶の耳に、届くように、仕組んだ。
陶は、それを、信じた。
疑いは、すぐには、形にならなかった。でも、毒は確かに回り、二年ののち――兵を挙げる直前になって、陶は、自らの手で、有能な江良房栄を、討ち殺した。
元就は、一兵も、損なわずに、陶軍の、要の将を、消した。敵の刃で、敵を、斬らせたのである。
でも、これは、元就のはかりごとの、一つ目に過ぎなかった。江良の件は、敵の手から、駒を一つ、抜く謀だ。敵の頭脳を、敵自身の手で、斬らせ、陶軍を、内から弱らせる。でも、駒を一つ抜いたところで、陶の大軍そのものは、まだ残る。元就が、本当に沈めたいのは、その大軍だった。
駒を一つ消すはかりごとから、敵の大軍そのものを、誘い出して沈めるはかりごとへ。
同じ「偽りを信じさせる」やり方でも、狙う獲物の大きさが、違った。誰に、何を、信じさせるか。その一点で、戦の、勝敗を、戦う前に、決めていく。
次に、元就は、戦場そのものを、選びにかかった。
ある夜の、評定でのことだった。
陶と、いかに、戦うか。元就は、三人の息子と、重臣を集めて、策を、練っていた。
次男の、元春が、まず、口を開いた。元春は、武の人である。
「父上。小細工は、無用に存じます。陶が攻めて来るなら、正面から、迎え撃てばよい。安芸の地の利は、こちらにある。正々堂々、戦って、討ち破りましょう」
三男の、隆景が、静かに、首を、振った。隆景は、知恵の人である。
「兄上。正面からでは、勝てませぬ。陶の兵は、こちらの数倍。地の利だけで、覆せる差ではない。……父上の、お考えは、別のところにありましょう」
隆景は、父を、見た。
元就は、笑った。三男が、自分の腹を、読んでいることに。
「隆景の言う通りだ。元春、正面から当たれば、毛利は、すり潰される。要は、陶の大軍を、その大軍が、役に立たぬ場所へ、誘い込むことよ」
元就は、地図の上に、一つの、小さな島を、指した。
「厳島だ」
厳島。
安芸の海に浮かぶ、神を祀る、狭い島である。平地は少なく、軍を、広く並べる余地が、ない。大軍が、その島に、押し込められれば、数の利は、消える。狭い島で、身動きの取れぬ大軍は、少ない兵の奇襲に、もろい。
元就は、その厳島に、城を一つ、築かせた。
宮尾城という、小さな城である。これが、罠の、餌だった。
元就は、また、偽の知らせを、流した。
毛利は、誤って、厳島などに、城を築いてしまった。あの島の城は、毛利の弱みだ。あそこを、陶の大軍で、攻めれば、毛利は、ひとたまりもない――と。陶に、そう、思わせるように、仕向けた。あえて、自分の側の、内情を漏らす形で。陶を、釣るために。
元就は、隆元にも、家督を、譲っていた。
長男の隆元を、表向きの当主に、立て、自分は、隠居の、形を取った。でも、それは、見せかけだった。実権は、すべて、元就が、握り続けた。隠居と見せて、なお、糸を引く。当主の座という、目立つ的を、息子に譲り、自分は、影で、すべてを動かす。
すべての手が、整っていく。
江良を消し、陶を疑いで揺さぶり、厳島という戦場を用意し、餌を、置いた。あとは、陶が、その餌に、食いつくのを、待つだけだった。
元春が、なお、不安げに、問うた。
「父上。本当に、陶は、厳島へ、来ましょうか。来なければ、この策は、すべて、水の泡」
元就は、静かに、答えた。
「来る。主を殺して立った男は、功を、焦る。毛利の弱みと見れば、必ず、自ら、大軍で、踏みにじりに来る。……人の心は、読める。読めれば、それは、もう、こちらの兵だ」
元就は、海の、向こうを、見た。
罠は、張られた。
あとは、嵐を、待つばかりだった。




