第5話:耳川
――天正六年(一五七八年)、日向・耳川。
大友宗麟は、九州で、最も大きな男だった。
豊後を本拠に、北九州の、六か国にも及ぶ領地を、握る。九州の覇者と言えば、まず、この大友の名が、挙がった。島津など、南の田舎大名に過ぎぬ――大友の側から見れば、そう、見えていただろう。
その宗麟が、奇妙な、夢に、憑かれていた。
南蛮の、神である。
宗麟は、キリシタンに、なっていた。南蛮の宣教師から、洗礼を受け、異国の神を、信じた。そして、その神の国を、この地上に、築こうと、夢見た。日向の地に、戦も、争いもない、信仰の理想郷を――務志賀という地に、その夢の都を、開こうとした。
宗麟は、その夢のために、大軍を、日向へ、南下させた。
数万の、大軍だった。島津方の高城を囲み、日向を、神の国にする。でも、宗麟自身は、前線には、出なかった。後方の、務志賀に、留まっていた。戦の指揮よりも、神の国の夢に、心を、奪われていた。
南下した大友の大軍を、迎え撃ったのは、島津だった。
義久は、弟たちを、日向へ、送り込んでいた。義弘も、家久も、いる。島津は、高城に、兵を入れ、城を、守らせた。大友の大軍は、その高城を、囲み、攻めた。城は、よく、耐えた。
義久と、弟たちの、狙いは、城を、守りきることではなかった。
城を、餌にすることだった。
高城が、囲まれ、苦しんでいる。それを見れば、大友の軍は、城を落とそうと、城の前に、釘付けになる。そこへ、島津の本隊が、援軍として、現れる。城内の兵と、援軍の本隊で、大友軍を、挟む。
高城川を挟んで、両軍が、向かい合った。
そして、島津は、また、あの戦法を、使った。
釣り野伏せ。木崎原と、同じ型。でも、規模が、桁違いだった。木崎原は、三百と三千の戦だった。耳川は、数万と、数万の、戦だった。
規模のほかに、もう一つ、木崎原と違うものがあった。敵の、頭の不在である。総大将の宗麟は、はるか後方の、夢の都にいた。前線の諸将は、城を力攻めにするか、後詰めを待つかで、割れていた。軍議は、まとまらぬまま、功を焦る先手が、独りで、川を渡り始めた。頭のない大軍ほど、誘い出しやすいものは、ない。
島津は、囮を出し、退くと見せて、大友の大軍を、高城川の渡しへ、誘い込んだ。勢いに乗った大友の軍は、川を渡り、追ってくる。隊列が、川で、伸びきり、乱れる。そこへ、島津の伏兵と、本隊と、城兵が、三方から、襲いかかった。
大友の大軍が、崩れた。
崩れた大軍の、退き場所は、高城川だった。背後の川に、追い詰められた数万の兵が、我先に、川へ、逃げ込もうとして、折り重なった。川は、逃げる兵で、溢れた。島津の兵が、その背を、追い、討った。
高城川と、その先の、耳川。
二つの川が、大友の兵の、死で、埋まった。逃げようとして、川で、溺れ、討たれ、踏み潰された。数万の大軍が、川に、消えた。地を、覆うほどの、亡骸だった。
大友宗麟は、その崩壊を、後方の務志賀で、聞いた。
務志賀の陣屋には、南蛮渡りの聖画が、掛けられていた。戦のさなかも、宗麟は、宣教師と、新しい都の絵図を、広げていたと伝わる。戦のない町。刀を持たぬ者たちが、鐘の音で暮らす都。その絵図の上へ、敗報が、次々に、届いた。読み上げられる討死の名は、どれも、長く大友を支えてきた、股肱の将のものだった。宗麟は、長いこと、絵図から、顔を上げなかったという。
神の国の夢は、川の底に、沈んだ。
この一戦で、大友は、家臣団の、中心を、失った。多くの名のある将が、川で、死んだ。九州最大の勢力だった大友は、この耳川を境に、二度と、立ち直れなかった。坂を、転げ落ちていく。
九州の、地図が、塗り替わった。
北の覇者・大友が、崩れ、南から、島津が、せり上がった。耳川は、一つの合戦が、九州全体の勢力図を、丸ごと、ひっくり返した、決定的な戦だった。
北九州では、すでに、別の力も、大友を、削っていた。
中国地方の、毛利である。海峡の向こうから、毛利は、長く、大友と、門司や関門の地を、争ってきた。北から毛利に圧迫され、南から島津に砕かれ、大友は、二つの大国の間で、すり潰されていった。
義久は、城の奥で、耳川の報を、受けた。
九州の、北半分が、開けた。
残る大きな敵は、肥前の、龍造寺だけだった。
義久は、地図の上で、最後の刃を、どこへ置くかを、考え始めた。




