第2話:日新斎の孫たち
――天文十六年(一五四七年)、薩摩。
島津には、代が替わっても、揺るがぬものが、あった。
家の、芯である。
その芯を、作った男がいる。貴久の父――島津忠良。出家して、日新斎と号した、老人である。世に、島津中興の祖と、呼ばれた。家を、もう一度、立て直した人、という意味である。
日新斎は、武人であると同時に、学びの人だった。
応仁ののち、割れに割れた島津の一族を、もう一度、束ね直す土台を、築いたのが、この日新斎である。でも、日新斎が、後の世に、最も大きく遺したのは、領土でも、戦の勝ちでもなかった。
歌だった。
日新斎は、いろは歌を、作った。
いろは四十七文字の、一字ずつを頭に置いて、四十七首の、教えの歌を、詠んだ。武士は、いかに生きるべきか。人は、何を、慎むべきか。学問とは、忠とは、孝とは、何か。難しい漢文の書ではなく、誰でも口ずさめる、やさしい歌の形で、日新斎は、家の道徳を、子に、孫に、家臣の子弟に染み込ませようとした。
「いにしへの道を聞きても唱へても、わが行ひにせずばかひなし」
古の道を、いくら聞いても、唱えても、自分の行いにしなければ、意味がない。
日新斎の歌は、そういう、地に足のついた教えだった。立派なことを、知っているだけでは、駄目だ。行え、と。その教えは、薩摩の武士の、背骨に、なっていった。
日新斎には、四人の、孫がいた。
貴久の、息子たちである。義久、義弘、歳久、家久。
老人は、その四人の孫を、よく、見ていた。そして、ある時、人に、こう語ったと、伝わる。
義久は、三州の総大将たるべき、徳を備えている。義弘は、雄々しき武と、すぐれた戦の計りをもって、人より抜きん出ている。歳久は、始めから終わりまでの損得を見抜く、知恵において、たぐいがない。家久は、軍の法と戦い方の、妙を得ている――と。
四人の孫に、四つの、違う器を、見たのである。
一人の英雄では、なかった。
四つの、異なる才が、一つの家のために、働く。総大将の徳。戦場の武。はかりごとの知恵。軍法の妙。それが、一つに、組み合わさったとき、島津という家は、ただの強さを、超える。日新斎は、その未来を、四人の孫の中に、見ていた。
その孫たちを育てたのは、戦場の父・貴久だけでは、なかった。
奥に、母がいた。
貴久の正室――後に、雪窓夫人と呼ばれる女性である。入来院の家から、島津に嫁いだ。貴久が、薩摩統一のために、年中、戦に出ている間、家の奥を守り続けたのは、この女性だった。
薩摩には、気風があった。
男は、戦に出る。女は、家を、郷を、守る。男たちが槍を持って国境へ向かう間、留守の城と、領地と、子らを、束ねるのは、女の務めだった。雪窓夫人は、その薩摩の女の、芯のような人だった。戦に明け暮れる夫に代わって、子らを育て、奥を治め、家を、揺るがせなかった。
義久も、義弘も、その母の膝の下で、育った。
貴久が、戦陣から、幾月も帰らぬ年があった。留守の城下に、敵方が動くという噂が流れ、家中が、ざわついた。雪窓夫人は、慌てなかった。蔵の米を検めさせ、郷々への繋ぎを確かめ、それから、幼い義久を、傍らに呼んだ。
「よく、ご覧なさい。男が外で戦えるのは、内が揺るがぬからです。内を保つのも、戦のうち」
義久は、その言葉を、覚えていた。のちに、城の奥から動かずに九州を動かすことになる当主の、いちばん古い手本は、母だった。
薩摩の郷では、年長の少年が、年少の少年を、導いた。武芸を教え、礼を教え、肝を練らせる。後の世に、郷中と呼ばれる、その気風の始まりが、すでに、薩摩の土に、根づき始めていた。子らは、家の中で、母に育てられ、郷の中で、年長者に鍛えられ、そして、日新斎の歌を口ずさんで、育った。
これが、島津という家の、強さの正体だった。
当主一人の、武ではない。
祖父の遺した、思想。母の守る、奥。郷の、気風。四百年の、血。そして、四つに分かれた、才。家そのものが、強かった。
道三は、油売りから、一代で、国を盗んだ。一代で築いたものは、一代で、奪われうる。義元は、名門の家格を誇りながら、その家を、一度の敗戦で、失った。
島津は、違った。
島津の答えは、一人の実力でも、一枚の家格でもなかった。四百年、保ち続けてきた、家。それ自体が、答えだった。
その家を、これから、四人の孫が、受け継ぐ。




