7-2 大帝賞⑧
ボンヴァルノン号が勝利した。
十二の重賞では、ファンディルサーガ号に後れを取ったがこれにて、四冠対三冠+片楯となる。
最期まで先頭を守ったボンヴァルノン号。
その勝利飛翔は美しく――
――しかし――
――高度が――
――下がり――
半周も回らない内に、着地してしまった。何があったのだろう。僕は立ち上がった。ベレー様がすぐに降り――轡を外された。
「ヴァロオオオオオオォォォォォォッッッ!」
ボンヴァルノン号の――咆哮。
雄叫びが、競竜場に響き渡る。
競竜では、競技中、竜による咆哮を禁じている。それが許されるならば、相手を威圧できる、声が大きい竜ほど有利になってしまうし、咆哮の応酬になっては、競竜の形式から逸脱してしまうからだ。よって、競争竜たちはまず最初に、啼かない訓練をすることになる。少なくとも、轡を着けている間は、啼かないように厳しく調教するのだ。
競技中の過発声により、失格になる竜はたまにいるが、どの竜も元々気性難か、競争の熱に当てられて、という事例がほとんどで、ボンヴァルノン号の気性は荒くなく、既に競争は終了している。
つまりは、緊急事態。
恐らくは――大怪我。
どこかしらを折ったか、どこかしらが裂けたか――これまでの調教をふいにして、叫び散らかしてしまうほどの痛み。
「大丈夫、かしら」ヒルデガルトは大きな瞳を歪めて、不安そうに呟く。
僕は彼女の肩に手を置く。大丈夫だと、無責任に返せる状況ではない。しかしせめて、彼女の安全は保障されていることだけはそうやって示せる。
春の大帝賞は、そうして慌ただしく終わった。
*
左翼靱帯断裂。
それがボンヴァルノン号に下された診断だったそうだ。
要するに、左の翼を動かせなくなったらしい。竜は両翼で羽ばたき空を翔ける。ゆえに片翼では、飛ぶことができない。
よほどのことがない限り、健全な靱帯が、突然切れるということはない。競争中に、接触等の危険行為はなかったため、考えられるのは――元から。
元から痛めていた、のであろう。
靱帯炎。
ボンヴァルノン号は、それを長らく患っていたのだろうと思われる。靱帯炎は、一度治っても再発しやすく、悪化すれば今回のような、断裂という事態にまでなる。
恐らくは――オリヴィエ記念以降。
靱帯炎は、ふつう魔法的治療を施され、半年もすれば治癒する。安静にしておくに越したことはないが、強力な魔法をかければ、あるいは治療用魔力との相性がよければ、治療の次の日からでもある程度は動かすことができるとされている。
ボンヴァルノン号は、三歳竜の前半、不調が続いていた。それは、怪我を押しての出翔だったに違いない。怪我が治り、葡萄ステークス、ロット記念、更にはダノワ記念での勝利。ボンヴァルノン号は復活を遂げた。
かのように思われていた。昨日までは。
靱帯炎は、同じ箇所を使い続ける限り、再発可能性は常につきまとう。
悪化して、断裂ともなれば魔法的治療だとしてもかなり難しい。順応するまでは動かせない、つまり飛ぶことができないし、飛べるようになったとしても、完治するまでには半年か、一年か、あるいはそれ以上の年月がかかる。
少なくとも、秋の大帝賞は断念せざるを得ないだろう。
ベレー様は、うちの厩舎に来て、淡々と事実を報告された。
休憩室にいるのは、僕とベレー様の二人だけだ。春になり、ぬるんだ気候に合わせて、甘めの紅茶を淹れてお出しする。
「――私の、責任だ。ボンヴァルノンの怪我は」
そしてここからは、感情の番である。
「私は、騎手失格だ」
ベレー様は、カップの取っ手に指を通しつつも、その爪は所在なげに中空を掻いている。
「『明けの明星』は――何よりも輝く存在でなければならなかった。いや、私がそう強いたんだ。逃げて逃げて、逃げ続ける戦術――それはボンヴァルノンの、素質でもあったけれど、抱えた爆弾でもあった」
ベレー様は言葉を切られる。爆弾。それはボンヴァルノン号の潜在的な《《危うさ》》をよく言い表していた。
ボンヴァルノン号の飛行は、理想そのものだった。
しかしそれゆえに、体構造が、あるいはアブスルグ種という品種じたいの限界が、理想に追いついていなかったのだ。
つまりボンヴァルノン号の故障は、ある意味では必然であったともいえる。それを、ベレー様は悔やんでおられる。
「両の楯を獲らせてあげられたかも知れないのに――私が、ボンヴァルノンを潰してしまったんだ」
ベレー様は下唇を噛まれる。
責任を感じられるのはもっともだ。しかしそれは決して、彼女だけの責任ではないはずである。
担当した調教師の責任。
競争方針を決定した竜主様の責任。
方々に、少しずつ責任があって――だから、ベレー様がそれらを一身に背負って、負い目を感じられ過ぎる必要はどこにもない。
かといって、それをベレー様に伝えても、彼女は基本的に、竜主様の意見を尊重してきたのだろうから、今度は竜主様を一挙に責め立てることになり、それは騎士として、控えたいところだろう。
そもそも、誰が悪かったかを議論することに生産性はない。何が悪かったか、故障の原因は何で、どうすれば防げたか。それらを分析して突き詰めて、詳らかにして、次に活かす。二度と同じことが起こらないように努力する。それは個人の努めであり、競竜界全体の努めでもある。そうして競竜界の発展に寄与するところが少しでもあれば、夢半ばのボンヴァルノン号も、誰かにその夢を継いでもらえる。いつまた、ボンヴァルノン号のような竜が出てくるかは分からない。
「ボンヴァルノン号の調教師に、会わせて頂けませんか」
だから、僕は言う。
「テルビナを。産まれたばかりのハハイラを。今後、潰してしまわないように――何が正しく、何が問題だったか。どうすればもっとよかったか、議論してみたいんです」
「……うん。そうだね」ベレー様は、顔を上げられ。「紹介するよ。私の、最初の相方を」
*
サクサクヴド号。
ベレー様が最初に、つまりは980年、18歳で騎乗された竜。
勝ち鞍はアクセル記念とライル記念、そして、
春の大帝賞。
ベレー様は、そこで片楯を得るという、史上最速・最年少記録を打ち立てた。
初舞台後、最初に騎乗した竜で大帝賞を勝つなど前代未聞であった。
それゆえに、ベレー様は、世間に『天才』と称されるようになった。
そのサクサクヴド号と、ボンヴァルノン号を担当した調教師。
アシュトール・ディガルさんとの面会がようやく叶ったのだ。
「はじめまして、エムリスといいます」
昼下がり、街の喫茶店で、僕は彼にに出会った。
年齢は、先生ほどではないにせよ、アーラム様と同じくらいだろうか、かなり年上に見える。額の中央で左右に振り分けた黒髪は肩口まで伸びていて、細い体躯と鋭い眼光で、道ですれ違ったら声をかけようとは思わないが、今日は僕のほうから面会を頼んだので、物怖じしてはいられない。ちょうど、店員が彼のぶんの珈琲と、僕のぶんの紅茶を運んでくるので、それぞれ受け取った。
「よろしくエムリス。俺のことは好きに呼ぶといい」
彼は低い声で言い、卓上の角砂糖を入れずに珈琲に口をつけた。
「えっと、じゃあディガルさん」僕は、味を見てから調整することにする。「今日はお時間を取って頂きありがとうございます。調教の話などを聞きたくて、ベレー様に取り次いで頂き――」
「その前に」ディガルさんは、僕を睨める。「アヒューイルさんに話はしてあるだろうな」
それは先生の名だ。僕が先生に師事している以上、学ぶべきことは先生が教えてくれる。ゆえにこうして、他の調教師に教わりにいくようなことはあまりしないものだと、ベレー様にも、アルザさんにも言われ、しっかりと先生に許可をもらってから来ている。それをやるだけの価値ある話が、彼から聞けると思ったのだ。
「勿論です」僕は頷いた。
「つまり今日、お前は」彼は再び、珈琲に口をつける。「――観客としてではなく、調教師として。俺に会いにきたんだな」そう言い放ったディガルさんの眼は。それまでの圧を凌駕するほどの鋭利さを伴って、僕を貫いた。
「……はい」その僕の肯定には、責任がつきまとう。観客としてではなく、調教師として。ここから先は、生半可な態度ではつき合わないという意思表示。僕も、遊びにきているわけではないため、その覚悟はできていたが、いざこうして、面と向かって問われると、ほんの少し、躊躇する隙を見せてしまう。
「……いいだろう」
ディガルさんは、それを見て思うところがあったのか少し黙っていたが、そう話を続けてくれる。「それで、何を聞きたい。何を知りたい」そう促すディガルさんは、恐らく大方の予想をつけているだろう。
「ボンヴァルノン号についてです」
だから僕は、無駄な言葉を削ぎ落して話し始める。
「続けろ」
「ボンヴァルノン号が最初に怪我をしたのは――オリヴィエ記念を勝った後だったんでしょうか」
「――続けろ」
ディガルさんは言う。続けろと言われても、質問としては一区切りがついたのだが、論拠を述べろということなのだろうか。二度目に言われた時は、様子が異なるような気もした。
「えっと、 まず前提として、一から靱帯断裂に至るほどの接触事故は、この間の大帝賞では見られませんでした。つまり靱帯炎が再発して、断裂に至ったと思われるんですが、その靱帯炎はいつ発症したのかを考えると、成績が突然落ちたオリヴィエ記念からなのではないか、と。復帰戦が葡萄ステークスだったというのも、好調な竜を、果実月のアクセル記念、葡萄月の葡萄ステークス、華洛月のロット記念、という三ヵ月連続出翔なんてさせるわけがないので、本命をロット記念に据えて、その前の調整として葡萄ステークスにギリギリ間に合った、という流れだったのでは、と……」
「なるほど」ディガルさんは言う。「葡萄ステークス出翔はおかしいか」
「おかしいというか、前後に重賞がある中で飛ばすほどではないかなと」僕は質問の意図を掴みかねながらも、所感を素直に答える。「その更に前後がロラン記念とタルギタオス記念で、四歳竜が多く飛ぶっていうのもありますけど」
「葡萄ステークスの翔路条件は」
彼は質問を続けた。
「――帝立第三競竜場、距離10フェレン」
「葡萄月だ」
ディガルさんは付け足す――
「あっ」僕は気づかされた。「秋の大帝賞と、同じ」
「そうだ。学校では習わなかったか」彼は言った。「葡萄ステークス。秋の大帝賞と同じ月、同じ場所、同じ距離で行われる一般競争。四歳竜が走るのだって、秋の大帝賞を意識する場合がほとんどだ。去年の勝利竜はアフカード号だろう。そしてだからこそ、三歳竜だって、秋の大帝賞を目指すのなら早いうちから飛んでおいて損はない競争だ」彼の舌は熱を帯びる。「俺も、ボンヴァルノン号を仕上げて、復帰後は秋の大帝賞まで必ず飛び切らせる、その想いで、葡萄ステークス出翔を提案した」
「――え」
「考えるのをやめないことだ。エムリス」
彼は、心做しか語気を強めて、僕に言う。
「竜の為を考えるのは大前提として。先例に囚われず、常に最善を求め続けることだ。流されるな。流れを作れ」
ディガルさんの口上から――連想せざるを得ない奴がいた。
グィーベだ。
彼は定石通りの調教をせず、竜と共に寝たり、新竜戦を模擬競争扱いするほど調教を詰めたり、新人ながら騎手に物申したり――それらは全て、竜の為で。
だから彼は、調教師としてあるべき姿の、同一線上には既に立っているのだろう。理想までの距離は遠くとも、その段にも立てていない僕と比べれば、遥かに先行しているといえる。
ただし、学ぶのは、グィーベからでなくともいい。数多くの名竜を調教した先生がいるし、目の前のディガルさんもいる。先輩のアルザさんやファルさん、時にはベレー様から学ぶこともあるだろう。
僕は未熟だが、自分の限界を知るというのは意味のあることだ。まだ学ぶべきことがあることは、成長の目が残っているということに他ならない。




