1-3 霜降月
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調教助手の朝は早い。
日の出と共に起きる竜。それより少し早く起きる調教師。
それよりかなり早くいらっしゃる騎士様。
夜明け前に来たベレー様は、まだテルビナが起きていないことを知ると、自らの足で練習場を歩き始めた。
騎手は競争では竜の背に乗るので、彼女のその行動が次の競争の役に立つとかそういうことではなく、ちょっとした気分転換というか、気晴らしだろう。
彼女がそんな行動を取られる理由に、僕は心当たりがあった。今月の重賞、年末のグランプリ競争、タルギタオス記念。観客投票三位に選ばれたマーファハーブ号だったが、結果は十二頭立てで八着。思うように追い込みがかけられず、残念な結果となってしまった。
ベレー様は、毎年そうなのだ。普段のレースでは数多の勝利を上げているのに、年末のタルギタオス記念、この重賞だけは、彼女の初舞台以来十年間、一度も勝ったことがないのである。あの五冠竜ヤチルシーム号すら三着であり、それが騎手ベレー様としての最高成績だ。
適性がない竜で挑んでいるというわけでは断じてなく、出翔竜はほとんど観客投票によって決まるのだが、その結果だけ見れば大抵は三位以上、低くても五位という結果である。その年の四歳竜数十頭の中から選ばれ推されるというのは、それだけ、充分に勝てると思われて投票されているという意味になるが、どうにも競争結果がそれに追いついてこない。
ちなみに、今年の勝利竜は、由緒正しい血筋の末裔にして、昨年のアクセル記念勝利竜、アウカタイデサー号である。
やはり手伝いに来ないグィーベに苛つきながら、朝の仕事を終わらせ、練習場を見遣ると、果たしてベレー様は、まだうろうろと歩き回っていらっしゃった。僕は竜用の救護用品を厩舎に運ぶ道すがら、彼女の元に寄った。
「やあ、君か」
ベレー様は僕のほうを向く。少し疲れた顔だが、瞳は健康的に潤んでいて、頬は熱を帯びた紅を呈している。
「おつかれさまです」
僕はとりあえずそう応じながら、何と声をかけるべきか思案する。マーファハーブ号は別の牧場の竜で、対面したことはない。そもそもベレー様にしても、初めて会った時からそろそろ二年が経とうとしているが、そう頻繁に来られるわけではなく、名前が憶えられているかどうかも怪しいくらいだ。僕の立場から彼女にかけられる言葉は、無責任なものにしかなり得ない。
一方のベレー様はそんな僕の感情の渦巻きを知ってか知らずか、「その毛布――もらってもいいかい」と尋ねられた。かいていた汗が蒸発して、身体が冷えたのだろうか。毛布というのは、僕が持っていた、竜用のものである。差し迫ってこの後の調教で必要なわけではなく、人間が使うとしても大きさに問題はないが、洗濯しているとはいえ竜の体液で汚れたものなので、お勧めはできない。
「でもこれ、竜が使用したやつなので……」
「構わないよ」
ベレー様がそう言われるので、僕は持っていた箱を一旦置いて、毛布を一枚、ばさっと広げて彼女に渡す。
「ありがとう」
彼女は受け取ると、サッと背中から毛布にくるまった。やはり寒かったのだろうか。「温かい飲み物もありますよ」僕のほうからそう申し出た。
「――君は」
ベレー様は、それには答えられず。
「観にきていただろう。先日の競争を」
逆にそう尋ねられた。
「……はい」
「また逃した。タルギタオスだけ」ベレー様は、くるりと僕に背を向けられる。「ハーブは悪くない。あれは――私の失態だった」
「それは――」競争での敗北が、騎手と竜、どちらに非があったかは、場合によるだろう。騎手の明らかな無戦略や誤指示は、騎手の責任に帰するだろうが、それぞれの竜の特性として、気性が荒かったり入場が遅かったりといった競争上の不利点がある場合もある(調教師の責任に帰する部分もあろうが)。
さきのタルギタオス記念、マーファハーブ号が素晴らしい竜であるのはさることながら、ベレー様の騎乗技術も素晴らしかった。僕が観ていた限りでは、同じく差し型である、勝利竜アウカタイデサー号による、マーファハーブ号の上空を取る競争運びが、マーファハーブ号の調子を鈍らせていたように感じた。
相手の下を取るならまだしも、自分から上を取るというのは、特に騎手の視線が切れてしまうため戦略としてあまりいいものではない。しかしアウカタイデサー号の騎手は、その一見して不利に思える作戦を、体躯のやや大きめなアウカタイデサー号で飛ばすことによって、圧迫感という武器に作り替えたのだ。
勿論、相手に作戦で一枚上手を行かれ、それで負けたというのだったら確かに騎手に敗北の責任はあるだろうし、ベレー様の言葉はそういう意味を含んでいるのかも知れないが、マーファハーブ号に一票を投じた観客として、騎手としての実力は信じていると、来月の重賞こそ勝利を飾ってほしいと、激励の言葉をかけたい。
しかしベレー様が、僕に話しかけられた理由。その態度。今僕が、本当にかけるべき言葉は、
「テルビナがそろそろ起きますよ」
僕は彼女の背中に言う。
「僕が毎日、面倒を見ています。すごく調子がよくて、来年の春から、無事初舞台に立たせられそうです」
彼女は、顔を袖で拭うようにすると、こちらを振り返った。「そうか、それは楽しみ――」
「ベレー様が乗って下さい。そして――テルビナと共に。タルギタオス記念を勝って下さい」
僕ははっきりと言う。
「タルギタオス記念で勝てる竜に、僕が育てます」
それは激励というよりは、決意表明、だったのかも知れない。
「それは――」ベレー様は口を開かれる。円い瞳が僕を捉えた。「それは私に、これからもう二年間、タルギタオスで勝つなと言っているのかな?」
テルビナが今年初舞台だとしても、タルギタオス記念を飛ぶのは四歳の年、つまり二年後だ。その間にも、ベレー様は他の竜で、タルギタオス記念を飛ぶ。
僕の顔から、血の気がサァーッと引いたのが分かった。いや、顔だけではなく、手足の先からどんどん感覚が失われていって、視界が狭まっていく。
「――というのは冗談さ」
ベレー様はあっけらかんと言われ。
「それは頼もしいね。楽しみにしているよ――エムリスくん」そう続けて、たたーっと僕の横を通り過ぎていかれる。少し進むと、すぐ振り返って、「ほら、温かい飲み物をご馳走してくれるんだろう? 行こうじゃないか」ニッと笑顔を見せられた。
僕の身体は熱を取り戻す。なんとか元気づけることはできたようで、僕は胸を撫で下ろした。地面に置いていた箱を拾い上げ、「今行きます――」
「おーい遅ェーぞ! 仕事だ仕事!」
厩舎のほうから、グィーベのそんな声が聞こえた。いつもは、というかほとんど彼のほうが遅れてくる立場なのに、自分が先に居る立場になった途端、なんと偉そうなことか。いや、遅れてきても偉そうではあるのだが。
「すみません、先にあちらへいってきます。毛布はあったかいのがあるのでそっちを使って下さい。飲み物はちょっと待ってて下さい!」
僕は早口で言い残すと、グィーベと戦うために疾走した。




