6-3 オリヴィエ記念⑥
「――――ッ!」
僕が騎乗し、テルビナは垂直な壁を――翔け上がる。
壁の高さは、八分の一フェレン――125キュートル。
地面と平行に飛ぶのだったら、競争に比べてほんの短い距離なのだが、垂直方向に飛ぶ場合はそうはいかない。
竜はその身体の構造上、高いところで翼を広げれば、羽ばたかずとも、ある程度の滑空で前に進むことができる。そうしたほうが、体力を温存できるというのもある。ところが垂直に飛ぶ際は、羽ばたかなければ、当然墜落する。競争中の仕掛以上の羽ばたきが、このたった125キュートルの距離に必要なのである。
テルビナが壁を上がりきった。
「よし!」
僕はテルビナの首に手を伸ばす――「熱ッ」全身の筋肉を使っていたためか、身体が普段より更に発熱している。僕はテルビナを、壁の頂上に着陸させ、息を整えさせる。僕はテルビナの背から、練習場のほうを見下ろした。この高さからでは全てが小さく見える。これほどの高さの壁――厳密には、建物の一部としての壁だが――は、なかなかないもので、この牧場はかなり設備が揃っているといえる。
「戻ろうか」
僕は鞍の上からテルビナに声をかけ、手綱を引く。テルビナは、「ギィ」と啼くと、飛び上がって、旋回しながら時間をかけて高度を下げていく。
着地すると、同僚の一人のイザルドさんが近寄ってきた。
「おつかれ。だいぶ首も据わってきたな」
彼にそう声をかけられ、差し出されたタオルを、「ありがとうございます」と応じながら受け取る。首が据わる、つまり飛んでいる最中に首が上下しないようにする訓練も同時に行っていたのである。疲れて苦しい時こそ、姿勢を保ったほうが、体力を消耗しづらい。壁を翔け上がる時も、首をまっすぐに保つことで、少しでも無駄な体力を削らずに済むのだ。僕はタオルを首にかける。
「ただいま」
そこへ、アルザさんが帰ってくる。彼女は今日、競馬場へ行っていたのだ。
「おかえりなさい」テルビナの手綱を握る力が強くなる。「それで、結果は」
「寒波ステークス、一着は――
――ジェディキッス号。ベレー様の、勝利だよ」
それは、僕にとってはこの上ない朗報だった。
重賞で、長らく勝てていなかったジェディキッス号。一般競争とはいえ、久方振りの勝利を挙げることができたのだ。
僕の調教にも身が入る。目指すは、半月後のオリヴィエ記念での、テルビナの勝利である。
*
〖――午後になり雲が出てきましたが、競争場はいまだ太陽の照る、ヴィエンヌ競竜場。二歳竜最後の重賞、オリヴィエ記念が開催されます。――〗
ヴィエンヌ競竜場。
十二頭立て。
距離9フェレン。
あまり他の競争で使われない小さめの競竜場で、オリヴィエ記念は開催される。十二頭立てということで、これまでの三戦から三枠も削られての競争となる。距離は9フェレンで、突然距離が長くなるということはない。
〖――出翔竜を紹介いたします。
先月のアクセルテグ記念での勝利の波に乗れるか、1番チャタモンガ、アーラム・ロット様。
唸る車輪、2番バルサガ、ザット・タタラ様。
甲賞勝利の一冠竜、3番エルダープサー、ザラエグ・ロラン様。
若き俊才が競竜界を轟かす、恐るべき末翼は侮るなかれ、4番ゼイケデイス、アルガ・オテュール様。
兄は一昨年のアクセル記念勝利竜、幕はまだ閉じない、5番シャッターレックス、キソウ・ダルハ様。
剣賞勝利の一冠竜、6番ザールカーフ、サルダット・タルギサガス様。
冷静に、そして大胆に、7番アクマルハン、バーリス・ファルスト=ザルディ様。
サタナ記念を勝った一冠竜、騎手は寒波ステークスからの連勝なるか、8番ヤチルテルビナ、ベレー・ハイジン=ハスト様。
冷たい風を切り裂く刃、9番ユークスラメル、エレイン・ザトッグ様。
一族を背負って今年も競技場へ、10番ディーブリス、カッサ=テスト・ゲネズ様。
前翔の剣賞では三着の好翔、11番マカザルーガ、ハービズ・セレヴロ様。
逃げて逃げて、今度こそ勝利を、12番アルキザック、ダンダ・パーサット様。
魔力提出が完了するまでしばらくお待ち下さい――〗
今回の出翔竜だ。これまでは入れ替わったり入れ替わらなかったりと、相手が不定だったが、だいぶ決まってきたようにも思う。
テルビナは8番。これまでの十五頭立てだったら真ん中だが、十二頭立てなので外寄りである。
距離は9フェレンと、剣賞より少し短い。
剣賞から四ヵ月、できる限りのことはしてきた。後は、ベレー様を信頼して託すのみである。
〖――魔力提出が完了いたしました。各竜のゲート入りが完了するまで今しばらくお待ち下さい――〗
今回も、ゲート入りまで滞りなく進んだ。プサーもすっかりゲートには慣れたようである――いつまたゲート難が発症するかは分からないが。
〖――二歳竜最後の競争、寒波月のヴィエンヌ競竜場、オリヴィエ記念、距離9フェレン。――発翔しました!
〖飛び出したのは大外から12番アルキザック、11番マカザルーガがこれを追う! 三番手には9番ユークスラメル、その後ろにはが内に6番ザールカーフ、外に10番ディーブリスが並んでいる! 続いて3番エルダープサー、1番チャタモンガ、7番アクマルハン、その後ろに5番シャッターレックス! 8番ヤチルテルビナはこの位置、4番ゼイケデイス、2番バルサガが続きます!
〖コーナー入って先頭はアルキザック、続いてマカザルーガ、6番ザールカーフが前に出る、少し下がって9番ユークスラメル、外からディーブリス、3番エルダープサーは内側に寄せていく! 六番手には最内から1番チャタモンガ、シャッターレックスが詰めてくる! ヤチルテルビナはアクマルハンと並ぶ、4番ゼイケデイスは依然この位置、2番バルサガはここからの飛翔が期待できる!〗
始まった競争、テルビナは前回と同じく後ろのほうを位置取っているが、今回は、ゼイケデイス号が更にその後ろを取っている。前回とは逆の立場になっていて、外から追い上げられたら厳しいか。
〖コーナーを出て直線へ、先頭は変わらず12番アルキザック、続いて11番マカザルーガ、剣賞を獲ったザールカーフがそれを追う、ユークスラメルとディーブリスが並んだ、甲賞勝利竜エルダープサーは内側を上がってくる! その後ろ、同じく内柵をなぞって1番チャタモンガ、外から5番シャッターレックス! ヤチルテルビナも内へ、7番アクマルハンは開いた前を詰める、4番ゼイケデイスは少し飛調を落としたか、バルサガと並びます!
〖さァ第3コーナー入ってザールカーフが追い上げてくる、先頭は依然アルキザック、マカザルーガにザールカーフが並ぶ、後ろに9番ユークスラメル、10番ディーブリスは潜り気味か、その上を通ってエルダープサー、先頭に狙いを定めた! チャタモンガにシャッターレックスが並ぶ、その後ろヤチルテルビナ、7番アクマルハンはシャッターレックスの後ろ、ゼイケデイス、バルサガが続きます!〗
テルビナは、ここで内側に寄せていった。一体なぜなのか――
〖第4コーナーを回って、先頭はマカザルーガ、ザールカーフがその後ろ、アルキザックはここまでか、上からエルダープサー、エルダープサーだ、そしてそれに続いてヤチルテルビナも上がってきた! 内を通ってヤチルテルビナ、エルダープサーを追って上へ出る!〗
第4コーナーを抜けた最終直線、ここで、テルビナはプサーの背後を取った。外のほうからわざわざ内に行ったということは、警戒しているのは外――ゼイケデイス号か。
内に入って他の竜を壁にしつつ、その、他の竜たちに、ゼイケデイス号を警戒させることで、自分は警戒せず自由に飛ぶ作戦だろう。プサーの後ろを取ったのも、プサーがゼイケデイス号の行く手を塞ぐために外へ寄った時に、正面突破するためか。
ゼイケデイス号の超加速は恐ろしい。しかしそれは、テルビナだけが、ベレー様だけが恐れるものではない。競争相手は全員恐れている。
壁の役目を果たしていたテルビナが内に寄ることで、これまで安穏と飛んでいた竜たちが、一気に恐怖に身を襲われる。超加速を無視はできない。かといって、意識し過ぎて下手な飛行をすることはならない。そういった心理的負荷が他の竜にかかると同時に、
ゼイケデイス号の行動も縛ることになる。今の位置から勝利するには、必ず仕掛けなければならない。しかし警戒されている中、翔路取りをするのは難しく、飛ぶとすれば――大外。目一杯に外側を飛べば、流石についてくる竜もおらず、自由に飛ぶことはできる。しかしゼイケデイス号といえど、体力が無尽蔵というわけではない。仕掛ける時機が大切だが、果たして――
〖ザールカーフがマカザルーガを交わして先頭、その後ろから3番エルダープサー! ここで九番手に控えるゼイケデイスは――出てこない! 伸びないか4番ゼイケデイス!〗
ゼイケデイス号は――仕掛けなかった。
理由は分からない。だがそれによって、プサーはこのまま、まっすぐ飛ぶ。そしてそれによって、テルビナは前に出られないことは確実だ。
前に出る方法は一つ。
〖ここで8番ヤチルテルビナ、エルダープサーの空を取る!
〖エルダープサー、少し身体を外へ傾けた! 外側を警戒する動きか!〗
内に寄っていて、下をマカザルーガ号が飛んでいる現状、抜け出すにはプサーの更に上を行くしかない。
しかしここで、プサーが右翼を上げての飛行に切り替えた。プサーがそのまま飛んでいれば、少し高度を上げれるだけで交わせただろうが、こうなると大きめに飛ばなければ、飛び過ぎて体力も時間も無駄に損する。やはり一筋縄では勝たせてくれない。
しかしテルビナなら。
〖ヤチルテルビナ、これを見事に交わしてザールカーフに迫る!〗
首が据わった飛行。
壁翔けで練習した。
大きめといっても、体力も時間も、最小限に飛ぶ。ベレー様がそれを引き出す。
これまでの調教が、今のテルビナの血肉となって、その成果が、今日結実する。
〖翼を閃かせ――入線! オリヴィエ記念、一着は――
――ヤチルテルビナ! ヤチルテルビナが差し切りました! 騎手はベレー・ハイジン=ハスト様です!〗
*
テルビナは、サタナ記念に続いてオリヴィエ記念を勝利し、二歳竜にして二冠の快挙を成し遂げた。
僕の調教したテルビナで、ベレー様の騎手としての歩みに、また新たな功績を、刻むことができた。
しかし気を抜いてはいられない。まだ三年続く十二の重賞の、一年目が終わったに過ぎない。
次の重賞は四ヵ月後、流水月のバトラズ杯。それまではまた、一歩ずつの調教の日々である。
その日、僕はベレー様と共に、繁殖竜用の竜房に来ていた。
ギルルルゥゥゥ、ギルルルゥゥゥと細い声で、一生懸命に自己の存在を世界に誇示する仔竜を、二人で眺める。
ヤチルシーム号の新たな産竜がまた誕生したのだ。
テルビナが産まれた年から、本格的にシームの血を残す計画が始まった。その血の確かさを、僕が育てたテルビナがこの一年で証明したかたちとなり、今後更に、シームの種竜としての地位は高まっていくだろう。
その産竜の内の一頭が、この黒褐色の仔竜だ。母竜は、我が仔に優しく吐息をかけて慈しむ。
「母竜が仔竜に息をかけるのは、生まれたての柔らかい鱗を固めるためだといわれているけれど」ベレー様が口を開かれる。「それって、生まれたての柔らかい鱗を触った人がかつていたってことだよね。どうやって、生まれたての仔竜を母親から引き離したんだろう」
「母竜がいなかったのかも知れませんね」僕は思いついたことを返してみる。「卵だけがあって、生まれた竜を、人の手で育てたことがあったとか」
「おお、なるほど」
ベレー様は感心したように顎に手を遣られる。
「調教はアルザに任せようかな。名前は――つけてみたいかな、エムリスくん」
「いや、そんな大役、恐れ多くて――」
「いいんだよ、憶えやすければ何でも」ベレー様は言われる。「この場所だったよね。私たちが初めて会ったのは」
「――そうですね」僕は頷く。あれは三年前。「ここまで来られたのは、正直、まだ夢みたいですけど」
「繋留者が繋ぎ留めたのは、私たちだった」
ベレー様は続けられる。
「だから名前は、憶えやすければいいんだよ。意味と想いは、後からついてくるものだから」
「――でも、アルザさんが調教するんだったら、むしろアルザさんにつけてもらったほうが」
「もう、変なところで強情だなあ」
ベレー様が破顔される。好きな表情だ。ほんの少しでも、“天才”ベレー様の心の内を、知れたような気持ちになる。
「あまり騒がれませんよう」
先生が、あの日と同じ姿で現れる。顔に厳しさの色があるのは、ベレー様ではなく僕に怒っているのだろう。
「すみません先生」僕はすぐに謝る。「えっと――ハハイラ、はどうでしょう」
「『守護者』――ヤチルハハイラ号。いいじゃないか」
ベレー様は言われる。
「じゃあ、竜主様にもお尋ねしてみよう」
「あ、これで決定じゃなかったんですね」
「来年も。期待しているよ、エムリスくん」
ベレー様はそう言い残して、厩舎を後にされる。
ヤチルハハイラ号。この竜も、ベレー様が乗られるのだろうか。
僕はかつて、騎手としてのベレー様に魅せられていた。それがやがて、彼女が乗る竜を、調教することになっていた。その竜はベレー様と共に、たくさんの人を魅せるようになっていた。
しかしまだ足りない。いや、まだ出翔の位置に過ぎない。三年間の競争は始まったばかりで、これからもっとたくさんの人を魅せていかなければならない。目標は、昨年の“金竜”、マーファハーブ号。あるいは、今もなお語られるヤチルシーム号。そしてゆくゆくは、かの伝説的優龑、アクセル号とアクセルテグ号をも超えるほどの。
夢は大きく語っておいて、僕は今日も、着実な一歩をテルビナと共に踏み出す。
(第六章 了)
【第一部 完】




