第8話:サインの重さ
船旅中爆睡していたし、事前に酔い止め薬飲んでいたからか、船酔い一切しなくて良かった。
カーテン越しに見える陽の光は、だいぶ落ち着いているから、もう夕方近いのかな。船の速度も、前世と比べればかなり遅かったからね。
ああー、上陸したくない。このまま引き返して、安全な王城で今まで通り過ごしたい。
こんな弱音、誰にも言えないんだけどさ。はあ、胃が痛い。
侍女さんたちの手でお化粧を施されて、外出着に着替えて、船を降りたら遂にわたしが治める領地に足を踏み入れることになる。
今のところ、船室の外から民衆の盛大なブーイングは聞こえないし、護衛さんもいるから即石を投げられるなんてことはないはず。
あ、外出るのね。はい、行きます……。
うわ、眩しい! 甲板に出たら、西日がすっごい差してる!
すぐに察した侍女さんが、日傘の角度を変えてくれたから、一瞬目が眩んだくらいで済んだけど、本当に不便が多いんだよね、この体。
前世では健康優良児で、視力も良かった方だったから、ロザリアとして生まれて十五年経った今でも、たまに前の体が恋しくなる。
いけない、あんまり考えすぎると、前世の家族に会いたくなっちゃう。
わたしはもう、ロザリア・アルジェンティア。……うん、切り替え完了。
「殿下、本日はポルトマリスの宿で一泊致します。明日早朝に出立をし、夕刻頃には領都マレディアへ到着する予定となります」
「分かりました。事前に言い渡してはいますが、この街の代官とは、領都で顔合わせを行います。如何なる者とも面談は行いませんし、取り次ぎは不要です。執拗い場合、拘束しなさい」
「かしこまりました。──殿下、馬車の支度が整っております。お乗り込みを」
マレディウム大公領に着いた──ここが、わたしが治める領地。
ここポルトマリス港からは、対岸にリオングランデ王国の領土が見える……はずなんだけど、相変わらず水面に反射する西日が眩しくて、そちらを見ることはできない。
万が一のことを考えると、アンナルデクス王国側にも港を作っておきたいんだけど、開発には年単位の時間がかかるしなあ。
今日は馬車移動と船旅で、精神的にも肉体的にも疲れているから、誰とも会いたくはない。
元々、ポルトマリスの代官と侍女さんたちにはその旨を伝えてあるから、余程の阿呆ではない限り、やって来ることはないと思う。
代官も、リオングランデ王国の者から、アンナルデクス王国の者へと交代させているし。流石に、港町を他国の人間に任せたままなんてことはしない。
宿まで移動するために馬車に乗っている間、物を投げつけられたり、民衆から罵声を浴びせられることはなかった。
車体についている窓は、カーテンで塞がっているから、実際に周囲の様子を見ることができたわけではないけど──少なくとも、危害を加えようと行動する人がいなかっただけ、良かったと思おう。
でも、まだ油断はできない。マレディウムの領民たちが、わたしのことを──アンナルデクス王国の貴族のことを、どう思っているのか、分からないし。
「殿下、宿へ着いたようです」
ああ、はいはい。それにしても、御者さんの手綱さばき、上手いなあ。加速も減速も、すっごいスムーズだから、乗っている側の負担が少ない。
扉を開けて、侍女さんが先に降りてから、次はわたしの番。あ、馬車に乗っていたから気づかなかったけど、もう完全に日が落ちてる。
ていうか、これ宿じゃなくて、屋敷じゃない? 立派な門構えの、でっかいお屋敷……ここを宿扱いかあ、ちょっと勿体なく感じちゃう。
お城には慣れたけど、貴族屋敷みたいな建物には、まだ慣れないなあ。元が日本人だから、おおって感嘆しそうになる。
一泊分の荷物整理は侍女さんたちに任せて、わたしは書類仕事に取りかかるとしよう。
法整備については順次施行していくつもりだけど、治安維持と衛生管理に関することは、領主として、大公として与えられている強権を使ってでも、すぐに対応しておかなくちゃ。
現状、領地運営の引き継ぎ中ってことで、リオングランデ王国の衛兵と、わたしの──大公直属の衛兵が、共に治安維持に務めている。
もう既に実務の大半はうちの衛兵が担っているけど、書類上は仮処置扱いだから、それを解除すると共に、わたしが改めて正式に措置を講じなければならない。
刑罰に関しても、色々見直しをしなきゃ。
でも、今この場でわたしが勝手に決めていいことじゃないから、具体的な話は領都に着いてからになる。
先に業務の引き継ぎをしてくれている執務官たちからは、リオングランデ王国側の人質兼実務責任者──ルシオ・アルヴォ・ド・ヴァントフォールさんについて、真面目で優秀、人柄も良いって話は聞いているけど……でも、内心ではどう思っているか分からない。
それにしても、名前長いなあ。
ええっと、ルシオがファーストネーム、アルヴォがミドルネーム。ドが貴族だということを示す前置詞、ヴァントフォールがファミリーネームだっけ?
呼びかける時は、ルシオ卿で良かったはず。アンナルデクス王国では、人質は貴族であってもファミリーネームで呼びかけてはならないっていう法律があるからね。
マレディウム大公領は、既にアンナルデクス王国のもの。だから、呼びかけもそれに則さないと。
いや、今は名前について考えている時間じゃない。
治安維持緊急措置法と衛生管理緊急措置法は、王城にいる間に書面を作成してあるから、あとは宿に持ってこさせた領地内の治安と衛生に関する報告書と突き合わせて、問題がなさそうならサインするだけ。
──うん、問題はなさそう。じゃあ、サインっと。
領地の接収に乗じて、犯罪組織が動く可能性や、物取りが増える可能性は考えていたけど……やっぱり、火事場泥棒みたいなことしようとする人はいる。
スリや少しの喧嘩くらいなら現場判断で処理させているけど、傷害事件や重大な窃盗事件以上のものは、一律拘束。
裁判は、わたしが領都──ヴェントルフ城に入城してからだ。何せ、領主が裁判長を兼ねるって決まっているから。
やだなあ、裁判。他人の人生を左右する決断をしなきゃいけないし、……時には極刑の判断をして、執行するための書類にサインをしなければならない。
制度上、わたしがその責を負うのは仕方のないことだと分かっているけれど、でも人の命を奪う判断をしなきゃならないのは、想像するだけで酷くストレスを感じる。
わたしがやるのは、書類を読んでサインをするだけ。執行人は別にいる──でも、執行判断をしたことは、変わらない。
ああ、胃が痛い。さっさと終わらせて、今日は早く寝よう。
「──本日の業務はここまでにします」
「かしこまりました。入浴の準備ができておりますが、如何致しましょう」
「そうね……もう入ってしまうわ。食事は軽いものにして頂戴、余りは皆で分けてくれて構いません」
「殿下のお心のままに。……どうぞ、ご無理はなさらず」
「ふ、無理をしているように見えて? でも、貴方の心は受け取ります。安心して頂戴」
「はい。身を弁えず、差し出口を申しました」
「許します。幼い頃から、貴方には心配をかけてきたもの。心を配ってくれたこと、嬉しく思っているわ」
本心ですよ、本心。実際に心配して貰えるのは有難いし、わたしの体質的に周囲が過保護気味になってしまうのも分かる。
何せ子供の頃は、幼い体なのに前世の体の感覚で動こうとしてしまって、よく転んだりふらついたりしていたからね。
わたし専属の侍女さん──乳姉妹である彼女に心配をかけたのも、一度や二度じゃない。
書類は自分の手で金庫に閉まって、それ以外の片づけは任せたら、先にお風呂だ。
アンナルデクス王国では、夕食の前に入浴をするのが当たり前。
パーティーの前にも入浴するし、帰宅後は簡単に体を拭くか、人によってはまたお風呂に入る。
わたしやお兄様はパーティー後でもお風呂に入りたいタイプで、お母様とお父様は体を拭くだけの時が多いそうだけど、たまに入浴もするタイプ。
魔化製品様々だよ、簡単にお湯が湧かせるって最高!
アンナルデクス王国は、山が沢山あって降水量も多いから、水が豊富。更に上下水道設備も異様に整っていて、王侯貴族の城や屋敷には広い浴槽があるのは当たり前。
平民でも、国営の公衆浴場で身を清めることが推奨されている。それくらい、わたしたちアンナルデクス王国民にとって、お風呂は身近なものだ。
ただ、リオングランデ王国では、アンナルデクス王国ほどお風呂に拘っていないらしいんだよね。
領内の様子や公共設備についての報告書を読む限り、入浴に対して忌避感は抱いていないみたいだけど、積極的な様子でもないらしい。
うーん、できれば二日に一回は公衆浴場でお風呂に入って欲しいんだけどなあ。不潔だと臭いも気になるし、病気にもかかりやすくなる。
マレディウム大公領の年間降水量については、まだデータが足りなくて、正確な数値は取れていない。でも、領内の貯水量は結構あるみたいなんだよね。
衛生管理の一環として、公衆浴場の利用を義務づけるのはあり。
ただ、公衆浴場の設備面が微妙らしい。うん、一度領都の公衆浴場全部を、建物が老朽化していないかも含めて、総点検させよう。
必要なところは修理、場合によっては建て直しをして……って、それはまだ早いか。
生活習慣っていうのは、簡単に変えられるものじゃない。強制されたからって、皆がすぐに納得してくれるわけでもない。
何より、ガラッと生活が変わったことに不満を覚えて、それが積もり積もってやがて反乱へ──なんてことになったら、目も当てられないし!
治安維持も衛生管理も大切だけど、まずは自分の命を大切にしよう。
すぐに行うべきことは、もうやった。書類にサインをしたから、明日から緊急措置法が施行される。
衛兵さんたちには、事前通達もしてある──わたしにとって、この二つの緊急措置法は、強権を使ってでも行う価値のあるものだから。
一度悪化した治安を回復するのは、とっても大変だからね。防止できるものはしていく。
暫く移動の毎日だったから、疲れも溜まっているんだよね。
あー、眠い。体と髪は侍女さんが洗ってくれるから、ぼーっとしているだけで良いっていうのが、余計眠気を誘う。
お風呂で寝ちゃうのって、睡眠じゃなくて気絶なんだっけ? 浴室でも一人になることはできないから、湯船で溺れることはないだろうけど、寝ないように気をつけておこう。
やっぱりお風呂は良いね。ゆっくり湯船に浸かったから、体はぽかぽかだし、手足の血行も良くなっている。
眠気はまだあるから、軽めの夕食をとって、蜂蜜入りのホットミルクを飲んで、寝る前のストレッチをして──はしたないって苦言を呈されない程度のやつだけど。
よーし、そろそろ寝よう! 睡眠不足は肌にも脳にも悪いし、何よりわたしが寝ないと侍女さんたちも寝れない。
護衛さんたちは、三交代制って事前に決まっているから、それに従って休憩するけど、侍女さんたちはそうもいかないみたい。
皆のためにも、さっさと寝て明日に備えよう。おやすみなさい。




