74.家族の形
「え、じゃあヘタ子、引っ越すんだ」
シャルムのテーブル席で向かいの席に座っている玲夢は、コーヒーフロートを吸っていたストローを口から離すなり、目を上げてそう言った。
「うん、成り行き上」
「じゃあ、これから仁君と不動産屋回り?」
「だめだめ、彼は今、受験勉強でそれどころじゃないもん。内見はネットでもできるし、不動産屋さんは向こうのお父さんのお友達だから、細かいことは全部お任せすることにした。それより社長業の方はどうなの、スタートの準備は順調?」
玲夢は以前にも増して忙しくなっている。土日もセミナーだとか付き合いだとかで、なかなか完オフが取れない、と電話でボヤいていた。
でも玲夢にめげるようすはない。
「社長ったって半分は営業だから忙しいのは忙しいんだけど……。それより目下の心配事は青木君のチーム編成と、機材も強化しないと。彼に稼いでもらわないと会社もたないからさぁ」
「ああ、何人か採用するって言ってたね」
「それにしても何だね、前科持ちが収益エンジンのキーマンで、専門学校出が二十二歳で社長就任? で、そのレディス上りの社長がT大卒を採用面接するって、世のなか不思議だよねー」
「会社おっきくしたら玲夢、有名んなれるよ。本書けるかも」
「やだよ、本なんて。ていうか書けない」
「で、どうなの、面接は」
「全員プーだから見た目も会話もぱっとしないんだけど、青木君にいわせると優秀らしいの。しかも女性がふたりいたんでちょっとびっくりした。ああいう業界って男のイメージが強いじゃない? だから認識改めないとダメだね、いい人採り損なっちゃう。だからってわけじゃないけど、女性が安心して働ける職場にするのは必須だなって思ってる」
「それぜひお願い」
「で、どう、ヘタ子の方は、仕事」
戸田嶋は先週から御子柴ワイズに出勤している。
今日はたまたま『残っていた私物を取りに』と言って、朝からワイズデザインに寄っただけだ。
実をいえば、寄ったのは、玲夢が出社しているとわかったからだ。今は、顔を合わせる機会はこうでもして作らないと難しい。飲みにいくわけにもいかないし。
「当分のあいだは、仕事は市場調査が中心になりそう。あの会社、オバ様方のハートは社長ががっちり掴んでるんだけど、トレンド把握とか全然。ショーの分析とかもやってないんだよ。要するに新しい情報がごそっと抜け落ちてるんでほぼゼロからのスタート。やることだらけ」
「あの会社、社長のワンマンだからねー」
「でも調査とか分析だったらリモートでも支障ないんで、助かる」
と、戸田嶋はアイスが溶け込んだクリーミーなメロンソーダを吸い上げた。
「で、あれは? 結婚はどうするの」
「ま、それはするんだけど」
戸田嶋はここで切って声を潜めた。
「ウチの方が大変でさ」
「ウチってヘタ子んち?」
「そう。母親に電話したら、えっらい怒られて」
「誰が」
「あたしに決まってんじゃん。そんな淫らな娘に育てた覚えはないって怒られたんで、あたしも淫らなことなんてした覚えありませんって大喧嘩よ」
玲夢は修羅場のことを知りたそうだったけど、ここはさらっと流したい。
けっこう大変だったのだ。
「お父さんはどうだって」
「父は逆で、孕ました相手が悪いって、今度は母と揉めちゃって」
「仁君のおうちもそうだったのよねぇ、男親ってそういうもんなのかな」
「それでさ、三人で向こうの家に行って」
「修羅場?」
玲夢が興味津々といった表情で身を乗り出してきた。こういう話が好きなのだ。
でも実際のところ、玲夢が期待するような修羅場はなかった。
仁のお母さんは一回発散させてるし、戸田嶋の母親も、娘との喧嘩である程度落ち着いていた。なので、
「ちゃんと冷静に話し合ったよ」
と答えると、玲夢は「なあんだ」と残念そうに宣った。まったく!
「でね、話し合いの結果、仁が戸田嶋家に婿入りすることになったんだ」
とここで小さいため息をひとつ。
それから説明を続けた。
「あたしも今回初めて知ったんだけど、戸田嶋姓ってもう、日本でうちら家族三人だけなんだって。なんでも元は宮家に仕えた学者の家系らしいんだけど、太平洋戦争のとき、ほぼ」
「戦死とか?」
「そう。だから、できたら戸田嶋家にきて欲しいって、うちの両親が」
「ヘタ子、まさか田舎に帰るとか言わないよね」
玲夢の慌てっぷりは本気だ。
「いやそれはない。家を継ぐ気もないし大丈夫だけど。それより、よくあんな厚かましいこと言えたもんだよ我が親ながら。でも最終的には、仁と、向こうのお父さんが、それでもいいって仰ってくれたんでそういう流れになっただけ。あたしは別に、戸田でも田嶋でも柏崎でも、何でもよかったんだけど。いちおう姓だけは戸田嶋ってことで」
この結論は氷山の一角だ。
裏には大きな葛藤があった。
戸田嶋は、仮に柏崎姓になったとしても、それでアイデンティティが侵されるとは思っていない。まあ強いてイヤなことといえば、柏崎早妃になったら、さき重なりで言いにくいってことくらい。
仁にも、特に姓への執着はなかった。
それよりも! だ。
結婚してどっちかの家系に入るって、理不尽じゃないだろうか。嫁入りだの婿取りだのって人身売買じゃあるまいし。そもそも、ふたりの問題なのにどっちかが相手の家に入るって……。
もちろん、今の自分に、そんなことを言う資格がないのはわかっている。
ただ、思う。
結婚の目的は、ふたりの新しい戸籍を作ること、ふたりが家族になることであって、家を存続させることではない。
だから、仁が戸田嶋の姓を名乗ることによって、跡取りとしての何かを強要されることになったら、そのときは全力で戦う。その覚悟はできている。
「ふーん、で、いつ結婚するの?」
玲夢の声には、ひと欠片の疑問も窺えない。
でもいつか、玲夢の考えを聞いてみたい。
どちらかの家柄を選ぶか捨てかするのが当り前、という結婚の常識について。そうした結婚以外に、法的選択肢がない現実について。
「式は二十七日、クリスマスのあと。このころだと向こうのご家族も揃ってるし、あんま遅くなるとお腹が重くなるからねー」
仁も戸田嶋も特定の宗教は持っていない。
でも仁のお父さんが最近クリスチャンになったということもあって、式は、教会でごく簡単に挙げることになった。婚姻届けはそのあとだ。
教会にはもう行った。
神父さんによると、本当は、キリスト教に関する最低限のお勉強を修了しないと式は挙げられない決まりだそうだけど、少なくとも今、仁に受験以外の勉強をしている暇はない。なので、簡易的な形式の、祝福式というのをしていただくことにした。
祝福というのは呪いの真逆、だそうだ。
呪いとは、悪魔に誰かの不幸を願うことだから、祝福は、神様に幸せを願うこと、ということになる。
つまり祝福式は、ふたりの人生に神様の恵みがあるように、幸せになるように、と祈ってくださる式だ。なら、これで充分じゃないか!




