56.ご両親への報告……
ある程度は予測はしていたものの、ランチ終わりの純喫茶シャルムはけっこう混んでいた。みんな食後のコーヒー目当てなのだ。
戸田嶋はテーブル席をあきらめ、カウンターの、一番端をひとつ空けて座った。マスターに向かって指を二本立て、ふたりということを告げる。
ほどなく玲夢はやってきて店内に戸田嶋の姿を探し始めた。戸田嶋が「こっち、こっち」と声を掛けると、ようやくカウンターを振り向いた。
何だか険しい顔をしている。
「大丈夫なの、こんな高い椅子に座って。すっ転んだら大変じゃん」
「平気だって、ちゃんと気をつけてるから、ほら」
と最近買ったペタンコシューズを見せる。
「妊婦さんは神経質なくらいでちょうどいいんじゃないの?」
視界の端でマスターが反応したような気がするけど、まあいいや。どうせそのうち目立つようになる。
「だね、気をつけるよ」
右手が自然と下腹部を撫でていた。まだ膨らみはない。
マスターに海老ピラフふたつと『コーヒーはあとで』と注文したところで本題に入った。
「で、どうなの仁君は」
「動揺してた」
「だろうね。で、父親になる覚悟は?」
「それが困っちゃって」
「どういうこと」
「父親の覚悟、あり過ぎなの。卒業したら働くって。そんなのダメじゃない。仁の将来を奪っちゃう」
このあと、昨日のやりとりを思い出せる限り、全部話した。真鈴ちゃんに話したことまで。
「問題はふたつだね」
「ふたつ? いやぁふたつだけだったら楽なんだけど」
「ざっくりまとめればって話。まずは生活でしょ。一年も経たないうちにヘタ子は働けなくなる。ワイズデザインがあろうがなかろうが、収入がゼロになるんだよ。あんた学費払うって、気概はいいけどその前に自分の生活を何とかしないと。仁君の方が地に足が着いてるよ」
ストレートな指摘を受けて、前向きな気持ちがしゅんと音を立てて萎んだ。
「もうひとつは仁君のご両親のこと。これから報告なんでしょ。
気になったから調べたんだけどさ、向こうは淫行条例を絡めて、あんたが誘惑したからだって損害賠償込みで訴えてくる可能性もあるよ、脅かすわけじゃないけど」
「それは仁が否定してくれるから大丈夫でしょ」
「そうだけど、ご両親は仁君以上に動揺すると思う。だから、ほんとにお腹の子の父親が仁君なのかって疑ってくると思う」
「そんなぁ」
「まあ、話してみないとわかんないけどね。案外祝福してくれるかもしれないし。とにかく、まずは誠意をもって話すしかないね。あ、そういえば結婚はどう考えてんの」
「その話はまだ」
「そりゃそうか、まだご両親に会ってもいないんだもんね」
「だってぜんぶ一遍にきたのよ。出会いと妊娠と生活の危機。それと仕事の試練も。どうしよう」
海老ピラフが運ばれてきた。
食べたかったものなのに、一遍にきたものの重さを再認識してしまったせいで、胃が押しつぶされそうだ。
「何してんの、これ食べたかったんでしょ」
「うん」
手が動かない。
「ヘタ子の優先順位の一番は新しい命でしょ。ちゃんと生むためには食べられるもん食べる!」
……そうだ、その通りだ。食べなきゃ。
戸田嶋はスプーンを手に取った。
いつもの三倍は重く感じられるスプーンにそっとピラフを乗せ、仕事だと思って口に運んだ。
口一杯に広がるバターの香りで眠っていた食欲が目を覚ました。
やっぱりおいしい。
ここのは冷凍や炒飯風の似非ピラフじゃなくて、米をバターで炒めてから炊いた、ちゃんとしたピラフだ。そのせいか少しも脂っぽさがない。海老はぷりぷりしているの焼いたみたいに香ばしい。
気が付いたら完食していた。
「確かにおいしいね、これ」
「でしょう。それにね、これ食べたあとのコーヒーがまたおいしいのよ」
サイフォンのコーヒーが運ばれてきた。カップに注ぎ分けていたら、玲夢が訊いてきた。
「そういればヘタ子、つわりとかってないの?」
「幸いにして今んとこは」
「ご飯の匂いがだめって人、多いらしいじゃん」
「そうだね、でもあたしご飯平気みたい」
「油断してると、急に来るらしいよー」
充実した食事と他愛ない会話。
なのにそんな日常すら心から楽しめない。
一歩も動けない。動く気力もない。
でも非情でもなんでも、時間は刻々と前に進む。お腹も大きくなる。先延ばしして解決する問題はひとつもない。
よし、決めた。
「今日、行くことにする、仁の家」
玲夢が顔を向けてきた。
感情は読み取れない。
黙って見つめてくるのは、この道が避けて通れないからだ。
「誠心誠意話す」
「うん、でも学費払うなんて大風呂敷広げない方がいいよ。あんたのプラン突っ込みどころ満載だからね」
「どうやって説明したらいいかな」
「説得しようなんて余計なこと考えないで、ヘタ子の気持ちも含めて現実を洗いざらい示す。じゃあどうするかって話はそれからでしょ」
「すっごい不安なんだけど」
「何よ、自分から今夜とか言ったくせに」
と初めて不満そうな顔をしたあと、
「あ、そうだ、応援に行ってやろうか」
とわざとらしく相好を崩した。
「それってまさか……」
「そ、八代目黒百合の正装で」
「お願い、それだけはやめて」
やっと笑い合えた。
それからは、コーヒーを飲みながら海斗君の話をした。
海斗君はすごく頑張っていて玲夢も温かく見守っている。何だか理想的なカップルに思えた。
恋愛って手順が大事なんだな、と戸田嶋は改めて思った。
運命的な出会いと急な展開ってドラマチックに盛り上がるけど油断するととんでもない事態に陥る。不倫っていうのも、こんな感じなんだろうか。だって運命の出会いだからね。
もちろん良くはないけど。
ま、どうしようもないんだろうな、きっと。




