57.初対面
柏崎仁の頭のなかは不安で一杯だった。
今夜。
これから。
早妃さんが家に来る。
目的は、あのことだ。それしかない。
昼間、早妃さんは電話で、
『今夜、ご挨拶に伺いたいの。だから、お母さんに都合を伺ってもらっていい? 無理だったら別の日にするけど、大丈夫だったら仁にも同席して欲しい』
と、まるで普通の連絡事項みたいな口調で言ったあと、
『あのことは、あたしの口から説明するから、それまでは内緒ね』
と、軽く釘を刺された。
電話があったのは午後二時過ぎ、五時間目が終わるころだった。当然、出られなかったので休み時間にコールバックして、この用件を聞いた。
いきなり今日だ。
早い方がいいって思ったから家にはすぐに電話した。
「会って欲しい女性がいるんだけど、今夜、招待してもいい?」って。
どんなに鈍くたって、その女性がカノジョだってことはわかる。
嘘を吐いているわけでもないのに心臓がばくばくした。
☆
学校から帰って、ダイニングキッチンを覗いたら、母は妙にハイテンションだった。考えてみたら家にカノジョを招待するなんて初めてだ。そもそも誰かとちゃんと付き合ったことなんてないし。
「ねえ、いつからその方とお付き合いしているの」
『ちょっと前』と言い止してすぐ、
「けっこう前かな、あれ、いつだっけか」
とごまかす。
「いつだっけかって、いい加減ね。女の子はそういうの大事にするのよ、ちゃんと覚えとかなきゃだめじゃない。
でもほんと、来るなら来るでもっと早く言ってよね。初めてのカノジョさんなんだからちゃんとお迎えしたいじゃない。あなたと違ってこっちは準備があるの」
「ごめん。言われてたんだけどうっかり忘れててさ、学校で思い出した」
嘘は慣れてない。でも急な訪問だ。このくらいはフォローしておかないと。早妃さんのために。
「そのお嬢さんって、好き嫌いないかしら」
「何の」
「何のって、食べものに決まってるでしょ。お夕飯にはお誘いするわよ」
「カレーでいいんじゃない。お母さんのカレー絶品だし」
「そういうわけにはいかないわよ」
文句を言いながらも母は楽しそうだった。『僕は死にそうだけどね』、という思いはもちろん口に出せない。
「あなた学校から一緒にお連れすればよかったじゃない」
「……え、あれ、言ってなかたっけ。年上なんだ」
「年上……、て、じゃあ先輩なの! 大学生ってこと? あなたたちいったいいつからお付き合いしてたの? はぁー、そうなの、まあ隅に置けないっていうか、お父さんに似たのかしらね」
母がエプロンで手を拭きながらこっちに向き直った。いけない、ここは質問攻めされたくない。
「別にないよ。ないと思う、好き嫌い」
「そう、じゃあ和食にするわね。カボチャの煮物があるし、あとお魚はどうしようかな」
「あ、そういえばさ、コーヒーとか紅茶はちょっと、最近、カフェインに敏感みたいでさ」
「あらそうなの。じゃあハーブティーにしようかしら。確かカモミールティーがあったわ」
話している間中、どきどきしっぱなしだった。
あのことを伝えるのもご挨拶のうち、であるならば、今のところ重大な嘘は吐いていない。
でも初対面でいきなり妊娠を告げるっていうのはどうなんだろう。……普通じゃ、ないだろうな。いやぜったい普通じゃない。
仁は母に「疲れたから部屋にいる」と言ってからダイニングキッチンを脱出した。
引き戸を開けて廊下に出たら、階段のなかほどに、まだ制服から着替えてない真鈴が座っていた。目が合った。今の会話は聞こえていたはずだ。
真鈴はいつもみたいに皮肉めいたことを言ってこなかった。
ていうか目が怖い。
事情を知っているわけだから当然か。早妃さん、全部話したって言ってたからな。でも早妃さんと真鈴って、いったいいつの間に仲良くなったんだろう。
真鈴の脇を通り過ぎるとき、声を掛けた。
「パンツ見えてっぞ」
当然、蹴りかグーパンチがくると思って身構えていたのに、真鈴は振り向いただけで何も言わなかった。
まあしょうがない。『サイテー!』て言われないだけいいと思わないと。
自室にこもり、勉強机の前に座った。外はもう暗くなりかけている。
灯りは点けず、机の上で手を組んだ。
待つ以外にやることがない、というのはなかなか辛いものだ。
鼓動がいつもより早い気がしたので、試合前にする呼吸法をやった。吐く息を目一杯押し出して一回止める。こうすると、次の吸気が自然に入ってくる。呼吸に神経を集中させることで雑念を払う、というウチのジム伝統の呼吸法だ。
十五分か、二十分くらい経っただろうか。
玄関のチャイムが鳴った。
救われたのかは微妙だけど、これ以上ひとりで座っていたら気が変になりそうだった。
階下から声がした。
「仁、出てちょうだい」
黙って部屋を出て階段を下りる。
ダイニングキッチンで念のためドアホンの画面を確認した。
ディスプレイに映った早妃さんが口元に笑みを作っていた。緊張している。でも覚悟、みたいなのが透けて見える。
「今開けます」
そう答えたら早妃さんの表情がすっと緩んだ。
玄関を開けると、畏まった早妃さんがいた。
手にはパティスリー・ドゥ・ボヌールの手提げ袋。最近、ネットで話題の行列店のだ。
「今、平気?」
「はい、こっちは準備整ってます。早妃さんこそ、大丈夫ですか」
「うん、がんばる」
目に力が漲っているのがわかる。でも戦うわけじゃないのに、
「早妃さん、気合い、入り過ぎです」
「あ、そうね。ごめん、気合い入れてどうすんだろね、はは」
早妃さんの両肩に、そっと手を当てた。そして、
「僕からも、ちゃんと言いますから」
「うん」
怯えたように頷く早妃さんが年下に見えた。
玄関から奥に向かって声をかけた。
「来たー」
しばらくすると、
「来たじゃないでしょ、もう」と言いながら母が出てきた。エプロンはもう外していた。
ふたりが目を合わせた。その距離二メートル。
早妃さんが頭を軽く下げ、そして挨拶した。
「始めまして、戸田嶋早妃と申します。仁さんと、お付き合いさせていただいています」
「仁の母で、柏崎佳乃です。戸田嶋早妃さんね、どうぞ、上がって」
母がスリッパを出した。
いよいよだ。




