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54.戸田嶋の決意と仁の決意

 翌日、戸田嶋は、学校帰りの仁と待ち合わせた。

 妊娠したことを伝えるためだ。


 誰にも邪魔されないでちゃんと話し合える場所はどこか……、とあれこれ考えて、結局カラオケボックスにした。


 場所は、慎重を期して仁が通う高校とは学区を変えた。

 それでも制服着用の男子高校生と社会人の若い女、という組み合わせだ。(いぶか)しがられるのではないかと心配したが、姉弟にでも見えるのか、受付でも、ロビーで他のお客さんと一緒になったときでも、特に変な目で見られることはなかった。


 一番、怪しかったのは仁の態度だ。


 「早妃さん何で? 僕ほんっとに歌ダメなんですよ」


 「いいの、別にダメでも何でも」


 「ええええ、もしかして僕、これから特訓ですか」


 「違うってばもう、そんな困った顔しないの」


 体操は天才と謳われたくらいなのに球技が苦手で歌がダメって! このギャップが笑っちゃうくらいかわいい。何ならほんとに特訓しちゃおうかって思ったけど、今日はそういう日ではない。



 

 「どうしたんですか?」


 個室に入っても一向に曲を入れようとしない戸田嶋に尋常ならざる気配を感じ取った仁が真顔で訊いてきた。


 「早妃さん、今日変ですよ。なんかあるんですか」


 「ちょっと待ってね。話はあるんだけど、うん、だから飲み物がきてから」


 ドアが開いて注文したカルピスが届いた。

 持ってきたアルバイトらしき子が、コントローラーを見つめたまま黙って座っているふたりを見て怪訝な表情をした。

 だが今の戸田嶋に場を取り繕う余裕はない。

 店の子が「ごゆっくり」とたどたどしく言って部屋を出ていったあと、戸田嶋はカルピスをひと口飲んだ。

 釣られるようにして仁も続く。


 「あのね、仁。落ち着いて聞いてね」


 仁が居住まいを正した。


 今度は戸田嶋の覚悟が揺らいだ。これから言うことの重大さに、少し怯んだ。

 声を出そうとすると、なぜか口のなかから急激に水分が消えていく。


 戸田嶋はもう一度、カルピスの入ったタンブラーを手に取って口を湿らした。そしてゆっくりと小さく息を吸って、

 「赤ちゃんができたの」

 とひと息で告白した。そして、

 「あたしたち、ふたりの」

 と重ねた。


 仁の表情が固まった。

 消えたのではない。

 肉体から分離した心が行き場を見失ってしまったような……、そんな、激しい静けさ。


 きっと動揺している。

 もう少しすると心のなかは嵐のように吹き初め、冷静さを失う。

 仁の目がほんの少し動いた。ぴくっと。そしてまた固まった。でもまだだ。まだ何も言わない。なので、

 「今、六週目で、順調だって」

 と事実を重ねた。


 「生む、つもり」

 本気の覚悟と、愛。全身全霊を込めた愛。


 仁が首を少し傾げ、そして(うつむ)いた。

 疑っているわけではないと思う。でも、何を思っているんだろう。そう考えていたら、仁が正面から見つめてきた。


 「ごめんなさい」


 何が。


 「すいません、僕、責任、とります」


 ……これから話そうと準備していたことが、全部消えた。


 「ばか」


 気が付いたら、仁の大きな身体を抱きしめていた。

 なぜだか、双眸(そうぼう)からぼろぼろと涙がこぼれ始めた。こぼれて、こぼれて、止められなくなった。泣くなんて、思ってもみなかった。


 二、三分もそうしていただろうか。


 

 でも泣いてばかりもいられない。

 戸田嶋は仁の両腕を掴んで少し距離を取った。


 頬に残った涙の跡を、仁がポケットからタオルチーフを取り出して押さえてくれた。

 それで、少し落ち着いた。


 「玲夢に怒られちゃった。バカだって。あたしが軽率だったの。だからね、だから。責任はあたしにある。仁は悪くない」


 「もちろん、生むんですよね」


 「生むよ」と答えたら、また涙がこぼれてしまった。

 仁はすごい。こないだ十八歳になったばかりなのに、大人だ。


 信じていた。でも本当は少し恐れていた。

 もし仁の目のなかに『堕ろして欲しい』という気持ちを発見してしまったらどうしよう、と。

 それは恐ろしい想像だった。

 もしそうなったら、という可能性を考えるだけで怖かった。

 でも、仁は受け入れた。この事実だけで幸せだ。


 仁はすごい……、この人は本当にすごい、大きな人だ。


 「大丈夫です早妃さん。僕、卒業したら働きますから。あ、それと一緒に住んでいいですか。結婚とかはまだ許されるかわかんないですけど、ほら、子供育てるのって大変だと思うし、あれ、でもなんかぜんぜん自信ないなぁ、自分が子育てなんて想像つかない。でもひとりよりはふたりの方がいいですよね」

 仁は早口で思ったことを吐き出した。

 でも、それはダメ。

 「そうだね、一緒にいたいのはあたしもそう、だからうれしい。でも、仁には大学に進学して欲しいの。だって勉強してスポーツトレーナーになって、今度はアスリートを支えるんでしょ。それには海外で学ぶことだって視野に入れてるんでしょ?」


 仁がわかり易く『なんで知ってるの?』という顔をしたので、

 「真鈴ちゃんから聞いたの」

 と答えたら今度は本当に、

 「なんで」

 と声にした


 このとき、妊娠については真鈴ちゃんにも事前に報告しておこう、と思った。あの子も同じだ。子供じゃない。ひとりの人間として筋を通すべき存在だ。


 「んー、まあ、そのことは置いといて。とにかく仁は大学に進むの。学費はあたしが出す。少しなら貯金もあるし、今、取り組んでるプロジェクトが軌道に乗ったら収入も増えると思うし」

 嘘ではないが不確かであることは伏せた。


 「でも正直、満額は難しいっていうか無理なんで、奨学金の方は、検討してくれたら助かる。もちろん保証人になるし、返すのだって一緒に返すよ」


 「いやダメですよ、早妃さんが払うなんてそんなの、それだったら親に」


 「出してくれると思う?」


 仁が考え込んだ。


 「あたしのことを(ゆる)して? 無理だよそんなの。もし出してくれるってなったらね、そのときはきっと、別れなさいって話とセットだと思うの」


 「じゃあやっぱり僕、卒業したらすぐに働きます。僕が早妃さんを支えます」


 「だめ」


 仁は今、初めて考えている。衝撃の告白を受けて、混乱しながら今、初めて考えている。

 でも戸田嶋は違った。

 妊娠を知ってから今日まで、ずっとシミュレーションしてきた。し尽くした。

 仁がどういう反応を示すか。

 ご両親がどういう感情を抱くか。

 どうしたら大学と生活を両立できるか。

 どんなに考えても、成功間違いなしの正解はなかった。でも、子供を生まない選択も、仁と別れる選択もしないのであれば、残された方法で最善を選ぶ以外に道はない。あとはもう、神様に任せるしかないではないか。

 それが、戸田嶋が選んだ結論だった。


 「だからいい? 仁はちゃんと大学に行くの。あたしが、がんばって働く。何とかする」

 ブラック企業だろうが何だろうが、ワイズデザインを辞める選択肢は、とうに消えている。だからコンペには何が何でも勝たなくてはならない。




 仁が思い詰めてしまったように見えたので、

 「ねえねえ、せっかくきたんだからさ、ちょっと歌ってみてよ」

 と目の前にマイクを突き出すと、仁は反射的に受け取った。


 戸田嶋は、マイクを手に目をシロクロさせている仁をチラ見して「適当に入れるねぇー」、とコントローラーを操作する、振り。


 すると、仁が必死の形相で抵抗を始めた。

 「ちょっと待って! ダメです早妃さん」


 「いいじゃん、一緒に歌ってあげるからさ」


 コントローラーに手を伸ばしてきたので、

 「ミセスとバウンディ、どっちがいい? あ、あいみょん好きだったよねー」

 と笑顔を返した。

 やさしい仁は、こういうとき無抵抗だ。

 

 「やめてください。てか、ぜっっったいに歌いませんからね!」


 半泣きで怒る仁の顔を見て、今日初めて、心から笑うことができた。


 戸田嶋はいたずらを止め、「ウソ、ごめんね」と大きな体をハグした。


     ☆


 仁と別れてすぐ、真鈴ちゃんに電話した。

 報告したのは『仁の子を妊娠した』、ということと『生む』という決意。あと、なんとかして『仁には大学に行って欲しい』という気持ちと、『一緒に生活したい』、という希望。それらをすべて、まだ明確な道が描けていないまま話した。それと、こういう話を今さっき仁にした、ていうことも。


 不思議なことに、彼女は仁ほど動揺しなかった。

 「はい」「はい」と落ち着いて聞いたあとは「わかりました」、とだけ。

 質問もなかった。



 前に会ったとき、真鈴ちゃんから『お兄ちゃんと、エッチしたんですか』と訊かれた。

 あれは思春期にありがちな背伸びなんかじゃない。あの質問は、純粋に兄を思う気持ちから発せられたことばに違いないし、そう訊かれて『(遊びではなく)真剣です』と答えられたのは、真鈴ちゃんの愛に気高さを感じたからだ。

 そのことを、電話を切ったあとで理解した。真鈴ちゃんの冷静さは、そういうことなんだ、と。

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