48.一難去って
一難去って何とか人心地はついたものの、戸田嶋のもうひとつの難事はちっとも進んでいない。
「なあ戸田嶋、もういい加減動こうよ、締め切りまで二週間切ったのよ」
小巻主査は、数日前から喫煙の習慣を再開している。
勝手に自席と定めているダイニングテーブルのすぐ後ろに換気用のファンがあるので、周りに迷惑はかけていない、とばかりの、堂々とした喫煙ぶりだ。副流煙が気になってしょうがない。
とはいうものの、戸田嶋にしたって、いらいらの原因が自分にあることはわかっている。ならば抗議する前に、その原因を取り除かなくてはならない。
アイディアは浮かんでいる。消える前に早く形にしたい。
「青木、ちょっといい」
パソコンを畳み、青木に外出を促すと、小巻主査は、「あ、また逃げる気?」と睨んできた。
今日は違う。
自信があるか? といえば無いのだけれど、ある意味、腹は決まった。というか時間的に考えても、もうこれしかない。
「場所、どこにします?」
「シャルム」
「先行っててください、ちょっとこれやっつけてから追いかけます」
「了解」
戸田嶋は自分のパソコンを抱えてオフィスを出た。
「戸田嶋、もうあとがないのよ、油売ってる暇はないんだからね、わかってるよね」
小巻主査の声には意志の力で耳を塞いだ。
地階への階段を降りて純喫茶シャルムに入ると心地よい冷気に包まれた。エアコンとは違う、洞窟のような、異世界的な空気がここにはある。
当てにしていた奥の席には高校生のようなカップルが顔を寄せ合っていたので、戸田嶋はカウンターに席を定めた。
青木ひとりならここでも問題ないだろう。
壮年のマスターが、戸田嶋の前に、黙って水とおしぼりを置いた。半年ほど前に、年老いた先代から店を引き継いだ方だ。
「すいません、もうひとり来るんで、注文少し待ってください」
マスターは頷いただけで、再び自分の仕事に戻っていった。
しばらくすると、青木がやってきた。
「すみません。切りのいいとこまでやんないとわかんなくなっちゃうんで」
人間関係を伴う仕事だとミスだらけの青木は、不思議と、パソコン相手に黙々と作業する仕事だとミスもなく、クライアントの受けもいい。
考えてみれば、人が良くてノーが言えない性格なのだから無理して通常業務を教えるより得意分野を生かすべきだった。
青木がWiFiのセッティングを始めたので、
「あ、いいのそれは。今日は話を聞いてくれるだけで。コーヒーでよかったよね」
「はい」
マスターにブレンドコーヒーを注文し、自分はリンゴベースのスムージーを頼んだ。最近はこれに嵌まっている。
「ねえ、青木って家で料理とかする?」
はあ? という顔で見返された。
「だからさ、自炊してんの? ひとり暮らしでしょ」
「まあ、ほぼコンビニメシですかね。たまに吉牛かラーメン」
「寂しくない?」
再び、はあ? という顔。
「そりゃ誰か作ってくれる人がいりゃいいですけど、ていうか何の話ですか」
「グルーヴさんのコンペの話よ」
青木は、なぜか頭を掻いて、それから少し姿勢を正した。そして、
「料理ってひとり分作るのって意外に難しいし、却って不経済なんですよね。学生んときはカレーとかまとめて作って一週間そればっかとかやりましたけど。あれをもう一回やりたいかっていわれると、どうなんですかね」
とまじめに答えた。
「わかる。まあ、あたしなんかだと冷凍庫と電子レンジでなんとか遣り繰りするんだけど、それでも覚えるまでは青木と一緒よ。煮込み料理が中心になるから飽きちゃうのよね。冷凍庫もそんなに大きくはないし」
「それがグルーヴさん向けの新業態とどういう関係があるんですか」
「まあ聞いて。あのさ、それって要するに、調理技術の問題だと思うのね」
「違いますよ。鍋の大きさですよ」
「でもさ、こういうお店だってどこだって、ひとり分の料理を注文したらちゃんと出てくるじゃない。何でだと思う」
「まあ、それは下拵えとか、ちゃんとしてるから。時間かけて」
「そういうこと」
「何が言いたいんですか」
戸田嶋は目を青木から逸らして正面を向いた。
目の前では、今まさにサイフォンでコーヒーを抽出している。この行程が間近で見られるのが、カウンター席の特権だ。
昔ながらのガス火で沸騰させたフラスコの湯が上のロートに上っていく。そして『ごぼっ』という音がして湯が上り切ったところを竹べらで軽く攪拌すると、コーヒーの乾いた香りが周囲に広がっていく。この瞬間が最高だ。
「これと一緒」
とサイフォンコーヒーを指さして続けた。
「素材が良くって、マニュアル化できる技術があれば、普通の人だってちゃんと美味しいものが作れる。ですよね、マスター」
マスターははにかみながらも、小さく頷いた。
マスターは、四十代のとき、何か、どうしても我慢できない理由があったそうで、それまで勤めていた中古車の販売会社を辞めた。
でも五十を目前にしてからの再就職は甘くない。
家族に就活と偽って、この店で時間を潰す日もあったらしい。
先代は見るからに厳しそうな人だった。でも、ここを隠れ家に定めた今のマスターにとってはきっと、居心地のいい場所だったのだ。そうでなければ、いくら、ほんの繋ぎのつもりだったとしても、いい年して喫茶店のホールスタッフなんて、するわけがない。
ただ、やってみたら思いのほか楽しかったらしく、そのまま居着いてしまった、というか継いだのだ、看板を。
それでも、好きだけで極められる仕事ではない。何とか先代を味を引き継ぐことができたのは、この店がサイフォンコーヒーの店だったからだという。『もしハンドドリップだったらとてもじゃないですが……』、無理らしい。
先代に似てあまりしゃべらない今のマスターがここまで語ってくれたのは、最近になってのことだ。
「サイフォンコーヒーは器具が淹れてくれるから、管理点をきちんと守っていれば、誰でも作れるんですって。ね」
マスターは無反応だった。でも何よりそれが、肯定を意味している。
「戸田嶋先輩、じゃあ、コンペに応募する新業態ってサイフォンコーヒーの店ですか」
「残念。お料理教室」
青木は露骨に首を傾げ、それから、半笑いで感想を述べた。
「ちょっと待ってください。話が飛びすぎてません? 着地点が見えないんですけど」
「それで、青木に頼みたいのは、個人レッスンができるキッチンスタジオのイメージ。その叩き台を作って欲しいの、CGかなんかで。AIにちょっとやらしてみたんだけど、なんか変なんだよね。例がないからかな」
それから戸田嶋は、コンセプトの詳細をできるだけ丁寧に説明した。
説明が終わったのは、ちょうど、青木がコーヒーを飲み終わるころだった。
「わかりました。ちょっと想像してたのとあまりにも違ったんで、正直、何も準備できてません。なんとなく、時流的にこんな感じかなっていうティストは調べてて、資料集めとかしてたんですけど、キッチンスタジオはさすがに想定外でした」
「で、どう思った?」
「おもしろいとは思います。でもこれが受けるかどうかっていうと、僕には。正直、わかりません」
「うん、冒険なんだけど、楽しいっていうのは間違いないの。何パターンか作ってくれる? ラフでいいから。いくら社内だって説明するときに、ほら、話だけだと伝わんないじゃない。えっとね、いい? 必要な機能としては……」
ひと通り説明を受けた青木は、コンセプトがイメージできる画像の作成を引き受けてくれた。
☆
青木とふたりでオフィスに戻ると、小巻主査が睨んできた。何か言いたそうだったが、
「週明けの月曜日、コンセプトの概要を説明します」
そう言った瞬間に、九死に一生を得たみたいな顔になったので、思わず笑ってしまった。
豆鉄砲を喰った鳩の顔ってこういう? 違うか、はは。




