8-4 例外
執務室の冷たい床へ突如として倒れたクリス。 直ちに血相を変えた側近たちが駆けつけ、王都中の名医が緊急に召集された。診察を終えた御医は、冷や汗を拭いながらクリスへ告げた。
「ギャロット閣下。脳にも内臓にも目立った病変はございません」
「ふむ・・・・・・ならば、なぜ倒れたのだ?」
「原因はただ一つ。極度の過労にございます。このまま働き続ければ、次に倒れた時は命の保証ができません」
「仕事を減らせ・・・・・・か。無茶を言う」
医師団からの厳命に、クリスは苦笑しながら渋々従うしかなかった。そんな中、病室で休んでいると部屋の扉が叩かれ、開いた。
「クリス様、お身体、大丈夫ですか?」
「失礼、見覚えはあるがどちら様であったかな?」
「あら、嫌ですわ。貴方様に助けていただきましたサキです。サキ・モートンですわ」
「ああ、あなたでしたか。このような病室まで、どうされたのです?」
「お倒れになったと伺いまして、お見舞いに参りました」
「それはご丁寧にありがとうございます」
「閣下、お元気になられましたら夕食でもぜひ。先日の感謝をさせてください」
「承知いたしました」
一週間後、医師団の反対を押し切って退院したクリスは、サキと夕食をともにした。宿舎近くの高級料理店で葡萄酒を嗜みながら、二人は政治や軍事とは無縁の会話を楽しんだ。相手の言葉の裏を読む必要もない穏やかな時間に、クリスは何年ぶりかも分からない充足感を覚えていた。葡萄酒の酔いが深まるにつれ、向かいに座るサキの目元や声が、クリスにはタチバナと重なって見え始めた。
「タチバナ、今夜は帰るな」
その一言で、サキはすべてを察した。それでも誤解を正すことなく、静かに微笑んだ。
「はい、クリス様」
翌朝、クリスが自室で目を覚ました時、隣に女の姿はなかった。
「タチバナはもう帰ったのか」
そう思っただけで昨夜の記憶を疑うこともなく、クリスはその日の執務へ向かった。だが、昨夜クリスが抱いた女は、タチバナではなくサキ・モートンであった。そしてその夜、タチバナとサキはとある一室で葡萄酒を飲んでいた。
「姉さん、姉さんはクリス様と仲がいいのね」
「なによ、急に」
「昨夜、クリス様は私のことを姉さんだと勘違いして私を抱いたわよ」
「何ですって!」
目が吊り上がったタチバナだったが、迂闊だった。これでは自分がクリスと深い仲であることを白状してしまったようなものだ。
「本当なの?」
「本当よ。葡萄酒のせいかしらね。最後まで私のことを姉さんだと思っていたわよ」
「そんな・・・」
「あの方は私の命を救ってくださったもの。私には、ほかに返せるものがなかったのよ。だから、これで貸し借りなし。そう伝えておいて 、姉さん」
「なっ!・・・」
我ながら、いい妹に育ったものね、とタチバナはため息交じりに思った。だが、クリスに対する感情だけは別だった。昔ならどんなに身体を預けても冷徹になり、感情の裏では計算を働かせていたが、今は歳のせいだろうか。単純に切なさが先にきてしまう。私も引退だろうか。
その後クリスと話をする度に心を落ち着かせ、話が終わってクリスの前を辞するとどうしてもサキの顔が浮かんでしまう。いや、違う、サキとクリスが笑顔でいる場面を想像してしまい、涙が滲むのだ。
「私は、こんなにも駄目な女だったかしら」
タチバナは誰にも見られぬよう、滲んだ涙をそっと拭った。 クリスが公務に復帰してからは予想外のことが立て続けに発生した。
「私も妾だったのです、貴族ではありませんから私と子供はお見逃しください」
というものが多かったのだ。そういった陳情や主張がなされるたびにクリスは憲兵隊に命じて身元を確認させるも、そのほとんどが嘘であり、ディックが王都を攻めた当時に郊外の別荘地や旅行などで難を逃れた正妻や第二、第三夫人であったのだ。クリスは一切の例外を認めなかったがとあるときに本当に妾だった女性から陳情がなされた。クリスはその女性が嫁いだ先の貴族家の公的書類を確認させると婚姻相手ではなかったが何と、養女として登録がなされていた。貴族家の公的書類に記載がなければ話は別だったが養女であれ記録があることは致命的だった。クリスは役人に命じてその事を伝えたが、
「モートン家の妾には認めて私は認めないのか!私は妾だった!だが、当主は世間体のため私を養女として届け出たのだ!書類だけを見て、私の人生まで貴族だったと決めつけるのか!」
と叫ばれて気がついた。
このままでは政治的公平性が失われる、そして王国は以前のように声が大きい人、賄賂を積む人、権力を持つ人、などがあらゆる罪に問われない不公平な社会に逆戻りしてしまう。しかし証拠に基づかない判断はできない。悩んだクリスは正直に公表することとした。
クリスは自らの判断に私情が入り込んでいたことを王国民の前で認め、公式に謝罪した。そのうえで、妾または妾の子という理由だけで処罰された者を再調査し、貴族家の政治や財産管理に関与していなかった者については身分を回復させ、没収財産にも可能な限り補償を行わせた。
だが同時に何故この話が広まったのだろうか。タチバナは事情を知るがシロタですらこの話は知らない。ということはサキ・モートンが漏らしたのだろうか。しかし犯人は意外なところであった。情報を漏らしたのは、サキに関する公文書調査を担当した女性行政官だった。彼女自身も貴族と妾の間に生まれた娘であり、母親が貴族家の一員として処罰された。母親が処罰された一方で、同じ妾であるサキだけが救われたことに納得できず、同僚へ不満を漏らしたことから話が広まったのである。
これはクリスにとって極めて重大な経験であった。クリスは、誰よりも公平性と論理性を重んじ、あらゆる判断を慎重に下してきたつもりだった。だが、たった一度の判断の偏りが、これほど深く社会へ傷を残す。公平性と論理性を何より重んじてきたクリスにとって、それは決して忘れることのできない教訓となった。
そのような日々の中だったがタチバナはとうとう我慢できず、とある日にクリスに詰め寄ってしまった。
「クリス様、お伺いしたいことがあります」
「何だ突然」
「サキ・モートンという女性のことです」
「サキ・モートンの件なら、すでに終わったはずだぞ」
「いいえ、終わっておりません。クリス様はその女性と夕食をともにした、とか」
「よく知っているな。だが、それがどうした? サキ・モートンを貴族として処罰した事実はないぞ」
「そうではありません。クリス様、サキ・モートンと夕食をともにした後、どうなさったのですか?」
「どうしたも何も・・・・・・帰ったに決まっている」
「本当ですか?」
「本当だ」
「絶対に本当ですか?」
「何だしつこいな。・・・と、あれ?違うな。・・・・・・・」
クリスの顔は徐々に強張ってきていた。確かあの日はタチバナと宿舎に帰り、そして一緒に寝台へ入ったような・・・
「タチバナよ。あの日はお前と食事をしたんだったな」
「違います!クリス様。クリス様はサキ・モートンと夕食をなさったんです」
「サキと?ではあれは・・・もしかしてサキだったのか?」
「クリス様、もしかしてサキ・モートンと私を間違えたのですか????」
「あのだな、えーっと、だな・・・」
「もういいです!」
タチバナは扉を叩き壊さんばかりの勢いで閉めた。轟音とともに、扉の向こうから憤怒の炎が立ち上るようであった。クリスは頭を抱えた。
「シロタ!」
「は!」
「シロタ、タチバナが去ってしまう。あいつに見限られるのは困る。どうすれば信頼を取り戻せる?」
「どうなさったんですか?クリス様」
「うむ、実はな」
話を聞いたシロタは思いっきり笑いこけ、そして言った。
「クリス様、それは自業自得というものです。タチバナ様が戻ってくるかどうかは策略や計算ではなく、クリス様の誠実さのみです。頑張って下さい」
クリスはそれを聞き納得するしかなかった。その後、クリスがタチバナに再会するのはずっと後のことであった。




