8-3 昏倒
一方、クリスの右腕シロタは四十三歳を迎えていた。 妻のミルキーは三十七歳となり、二人の間には十歳になる愛らしい娘が育っていた。
シロタの妻はかつてブライトン伯爵家でメラニアの侍女を務めていた平民出身の女、ミルキー・ランダーであった。当時、ミルキーが仕掛けた周到な外堀埋めの罠にはめられ、シロタは計算の結果として婚姻を選択せざるを得なくなった。それまでシロタは婚姻については、
「この世で最も不合理かつ不要なもの。ただ単に子孫を残すだけなら婚姻にこだわる必要は皆無である」
という強い意見を持っていた。
実際に王国では婚姻を結んだ男は夫となり家族のために働き、女は妻となり子育てと家事に邁進する。そして夫の稼ぎだけでは十分とはいえず、日々の生活のために身を粉にして働かなければならないのだった。
独身であれば、稼いだ金はすべて自分一人で使える。だが妻を娶れば二人で、子が生まれれば三人、四人で分けねばならない。シロタにとって婚姻とは、収入に対する支出人数を自ら増やす、極めて不合理な制度であった。
しかしメラニアの事件でミルキーを尋問し、ミルキーから執着されるようになった。ミルキーが裏切らないように念入りの処置だったがやり過ぎたのかも知れない。だがミルキーは法律的には何も違反をしておらず、事情を知らない人から見れば大変に可愛らしい女性として見られていたのだ。ゆえに力づくでミルキーを排除するような大げさなことは避けていた。
そんな状況でこれ以上の進展は無いだろう、と思っていたのだが、ミルキーはそのシロタの予想を超えていた。ある日、シロタの休日の時にミルキーはシロタの後をつけ、シロタが王都郊外の実家に帰ろうとした時、ミルキーは姿をみせ、偶然出会った素振りをしたのだ。
「あら、シロタ様。偶然ですわね。こちらのお宅はシロタ様の?」
「ああ、ミルキー嬢か。ここは私の実家だ」
「そうでしたか。それでは私もご挨拶を・・・」
「なんであなたが挨拶するんだ?お帰りを」
「分かりましたわ。それではまた、ごきげんよう」
ところが一か月後、再び実家へ顔を出したシロタは驚愕した。ミルキーが台所で母親と並んで料理を作っていたのである。
「ミ、ミルキー嬢、ここで何を?」
「あら、嫌ですわシロタ様。何をってねえ、お母さん」
「そうですよ、カンタ。いつもミルキーさんにお世話になっているそうじゃありませんか。よくお礼を言うのですよ」
「・・・・・」
シロタは後日、ミルキーに苦情を言ったがミルキーは素知らぬ顔でシロタの両親と懇意にし、親戚などにも顔を売っていったのだ。そしていつしか「カンタの嫁さん」として定着してしまっていた。
「カンタ、いつミルキーさんと婚姻するんだい?」
「いや、母さん、ミルキーと婚姻するなんて話はしたことないよ」
「まああなたって子は。頭がよくてもこういう事は本当に駄目ね。いいこと?母さんからのお願いよ。早くミルキーさんとの約束を果たしなさい!」
シロタは頭痛がした。さすがはシロタの母親である。シロタの考えていることなどお見通しであり、それを見越した発言だとはすぐにわかった。しかしもう否定するのも面倒になってしまった。別にミルキーが嫌いではない。身体の相性は悪いどころか極めて良い、と言えるだろう。才能は・・・こうやって外堀を埋める手筈は流石だと思うがどちらかといえば侍女で培った才能のほうが遥かに豊かだろう。つまり、嫌いではなく婚姻相手としても悪い女ではない、とシロタの冷静な頭は告げていた。
しかし、婚姻という不合理を受け入れるかどうかは別である。そんなことでモヤモヤしていたシロタであったがある日、実家に帰った時にミルキーがきてシロタの部屋に入ってきた。
「シロタ様、私の両親は早く孫の顔を見たいそうです」
「・・・それはどういう意味かな」
「こういう意味です!」
なんと、ミルキーの手には役所が発行する婚姻合意書があり、ミルキーの両親、そしてシロタの母親の三人の名前とミルキーの名前が記入済みだった。残る空白の記入欄はシロタの名前を書く欄だけであった。もちろん、シロタ本人が署名しなければ効力は生じない。だが、シロタ以外の署名は、すでにすべて揃っていた。
シロタはとうとう観念した。婚姻という不合理を受け入れ、ミルキーに押し倒される形で夫婦となることを決めたのだ。これもすべてタチバナがミルキーを調べるように言ったことが原因であった。シロタはタチバナに対し、「この不合理の責任をいつかとらせよう」と固く心に誓いながら婚姻合意書に名前を記入するのだった。そして名前を書いた後に心のなかで頭を抱えた。
「あぁ、俺としたことが・・・」
シロタとミルキーは公式な挙式は一切挙げず、婚姻合意書のみ役所に提出し、世帯を持った。そのためか、家庭内でのシロタは常にミルキーの尻に敷かれる凡庸な夫であった。 そんな彼が唯一絶対的な強気になれる聖域、それこそが、深夜の寝台の中だけであった。
「もう、あなたったら。昼間とは別人ですわね」
シロタは家庭での鬱憤を何気ない無表情で受け流していたが、二人きりで寝台に潜り込めば、昼間の力関係は逆転した。そんな夜にはミルキーも、夫にすっかり甘えてしまうのが常であった。ある日、汗を浮かべたミルキーが尋ねた。
「あなたはずっとクリス様の元で働いているけれど・・・・・・クリス様を超えようと思ったことはありませんの?」
「クリス様を超える、か。・・・・・・単純な頭の良さだけで言えば、俺の方が上かもしれん」
「あら、ご自分でおっしゃいますのね」
「だがな、単純な頭の良さだけで人の価値は決まらん」
「それはどういう意味ですの?」
「クリス様には俺にないものがある。策を実行に移す胆力と、人の感情を読み、その感情さえ策の中へ組み込む力だ。数字や制度なら俺にも読める。だが、人の心だけは計算どおりにはならん。俺には、いまだ分からないことばかりだ」
ミルキーはクスッと笑った。
「おかしいことですわね。最初に私を落とした時のあなたは、冷酷に自白を迫ってきましたでしょう?その実行力とお腰の剣は凄かったですわよ」
「・・・・・・」
シロタは答えず、奥方を強く抱き寄せ、その唇を自らの口で塞ぐのだった。
戦乱を生き延びた者たちは、それぞれの道を歩み始めていた。
かつての猛将ロランは、王都襲撃によって目的を果たすと軍籍を退こうとしたが軍も人材が極端に不足していたため、クリスを助けるためにもいまだ軍に残って精力的に役割をこなしていた。しかし、同時にいつでも王都を去れるように準備を進めていた。
私兵タチバナも、クリスとそれ以上の私的な関係になることは最初から諦めていた。年齢的にも出産期を過ぎており、割り切った日々を送っていたのである。
そんなある日、タチバナはふと、何年も前にヴァルディス共和国から連れ帰ってきた男のことを思い出した。
「そういえばあの野党当主の次男坊、名前は確か・・・・・・キーガ・ベルヌと言ったかしら。あの子はどうしているかしらね」
気まぐれに彼にあてがった王都の邸宅を訪れたタチバナは、その変貌ぶりに驚愕した。
なんと、キーガ・ベルヌは異国の地で独自の貿易事業を立ち上げ、莫大な富を築く大商人へと大化けしていたのだ!両国間の物資輸送、買付け、私設警備兵の運用までを一手に引き受け、古びた邸宅は豪邸へと改築されていた。
タチバナが気配を消して豪邸の窓を覗き込むと、彼の執務室の脇にある私室には、数名の若い女性たちが囲われていた。 驚いたことに、その全員が「若い頃のタチバナの容姿や雰囲気」に酷似していたのである。
「 タチバナ・・・・・・タチバナぁっ!」
昼間から締め切られた部屋で、大富豪となったキーガ・ベルヌは、タチバナにそっくりな若い女と情事に耽っていた。男は今なお自分を連れ去った妖艶なタチバナの影を追い求め、その面影を持つ女たちに執着し続けていたのだった。
一方、ディックの遠征に加勢した元山賊の首領ベイク・ランスリーは、国王殺害という武功ののち、ヴァルディス共和国の経済官僚へと堂々復職を果たしていた。父の仇であった国王を殺し、ディックの手によって敵対貴族が全滅したことで、彼はこの遠征で最も完全な満足と野望を叶えた人物となったのだった。
話を、王国の独裁権力者クリスへと戻す。
この過酷な五年間、クリスはただ一人で全政権を担い、旧体制の既得権益を破壊する高度な法案を強引に成立させ続けた。彼が断行した改革は、まさに国家の「解体と再構築」であった。
第一に、貴族制度の完全廃止と資産没収。
貴族庁を廃止し、国土調査によって貴族の土地所有権や特権をすべて政府へ移管。貴族の資金・貴金属は没収し、美術品等は資産査定のうえ適正価格で民間へ払い下げた。 取り上げた農園などの所有権は、農民や平民へ無償で分配した。
第二に、聖導教会の解体と非国教化。
国教指定を廃止して特権のない単なる一宗教法人へ叩き落とし、宗教独自の免税特権を完全に廃止した。
第三に、王室権力の完全剥奪。
王族の政治・軍事の実権をすべて剥奪し、王室を単なる「形式的な儀礼組織」とした。
第四に、奴隷解放登用制度の創設。
奴隷が自身の努力と少ない負担で、容易に「平民」へ格上げできる救済制度を構築。多くの奴隷が自由を得た。
第五に、軍事組織の刷新と軍人年金改革。
血統だけの軍部上層部を廃止。問題の多かった軍人年金を調査し、富裕層には減給、困窮者には手厚く支給する「資産連動型」へ変革した。
第六に、厳格な治安維持法と婦女暴行の厳罰化。
被害者の実名を公表せずに告発できる制度を整え、専門の捜査機関による厳格な証拠収集を義務づけた。性犯罪には極刑を含む厳罰を科す一方、故意の虚偽告発が立証された場合にも同等の重罪を科した。
クリスは「臨時財産吸収法」により、滅んだ門閥貴族たちの莫大な隠し資産や荘園・鉱山を合法的に没収。国家再建と平民への払い下げ資金へと変えたのである。これらすべての超弩級の改革を、クリスは議会議長を兼任しながら、ただ己の強靭な頭脳と執念だけで強行し続けた。命の蝋燭を削りながら、アルカディア王国を奈落から立て直すためだけに働き続けた怪物の足跡であった。そして、ある実りの秋の夕暮れ。
山積みにされた法案の書類を前に、首席宰相クリス・ギャロットの細い指から不意にペンが滑り落ちた。
ポトリ。
彼はそのまま、冷たい執務室の床へと音もなく崩れ落ちるように倒れたのであった。




