1-7 誘惑
タチバナ・マリは、その商隊の中で唯一、「商人ではない」旅人だった。
彼女には、共和国へ向かう極秘の任務があった。王国中央軍の情報参謀からの直接の指示により、共和国の内情を探り必要であれば工作活動を行う密命を帯びていた。より具体的に言えば共和国内にいる王国に対して厳しい姿勢をとる強硬派の政治家を、タチバナの美貌と罠によって陥れ、その政治的姿勢を強制的に転換させる、国家規模の裏工作を担っていたのだ。
タチバナはその道の最高峰の専門家であり、こと「女性の身体を使って男を破滅させる」ことに関しては、天賦の才を持っていた。しかし、この想定外の襲撃により安全な移動手段を失った彼女もまた、一旦中央へと引き返さざるを得なくなった。
国境警備隊の砦に身を寄せ、一息ついたタチバナは、安堵のなかで一つの存在に目を留めた。あの地獄のような夜襲のなかで、取り乱すことなく、冷徹かつ的確に部下を動かして商人たちの命を一人も失わなかった若き指揮官、ディック・シャドウである。
あの若さで、あの統率力……ただ者じゃないね。タチバナは興味を惹かれ、砦の廊下ですれ違ったディックに、妖艶な笑みを浮かべて声をかけた。
「少尉さま、今回は助かりました。本当にありがとうございます。とっても感謝しておりますわ」
ディックは足を止め、無表情に答える。
「私は少尉ではない、准尉だ」
「あら、失礼いたしました、准尉さま。どちらのご出身ですか?綺麗な大陸標準語の王国訛りをお話になられますので王都かとは思いますが」
「あなたには無関係です」
「あら嫌ですわ、少尉さま、そんなつれなくなさらないでくださいまし。」
「少尉ではない、准尉だ」
もちろんタチバナはわざとひとつ上の階級で呼び、相手の自尊心をくすぐってみたのだが上手くいかなかったようだ。そしてそれよりもタチバナは、彼のあまりのうぶな様子、というよりも何か壁のような、いや違う、意識して女性を遠ざけようとしているのだろうか、妙に関心を抱いた。
そして、彼女がこの数日間観察してきたディックの姿、泥にまみれた戦場にあっても決して濁らない、部下を守り任務を遂行しようとする、あのあまりにも気高い精神、そして女性に対する妙な壁。
タチバナは自身が持つ「男を見極める直感」に自信を持っていた。このディック・シャドウという青年からは貴族臭がする。そして遠からず、このアルカディア王国を揺るがすような重要人物になる。彼女の肌が、ひしひしとその未来を予感していた。
立ち去るディックの背中を見つめながら、タチバナの瞳の奥に妖しい光が宿った。
「だったら……まだこの子が雛のうちに、私の手駒にしておかないとね」
貴族社会を激しく憎む彼女の歪んだ本性が、静かに首をもたげる。あの輝かしく気高い精神を自らの手でじわじわと「毒壺」へ叩き込み、完全に支配してやろうと決意したのだ。
傷ついた商人たちが歩けるようになるまで、少なくとも二週間はこの砦に滞在することになるという。タチバナは即座に動き、都にいる自身の組織へ隠密の手紙を早馬で送らせた。
滞在十日目のことである。
負傷者の手当てと上質な傷薬の搬入というもっともらしい名目で、タチバナが手塩にかけて育て上げた子飼いの女性三人が砦へと到着した。
目的はただ一つ。ディックに絶世の美女をあてがい、その肉体の虜にさせること。
廊下でその三人を見かけたドギーが、ディックの隣で首を傾げた。
「ハァ、傷薬の搬入にしては、えらく艶やかなお嬢さん方がやってきましたなぁ。とても手当ての補佐には見えませんがねぇ」
「ただの医療の補佐ではないかもしれん。油断するなよ」
呼び寄せられた三人はいずれも、タチバナが自信を持って仕込んだ「技術者」であった。類稀なる美貌と教養を兼ね備え、一度寝所へ引き入れればどんな堅物な男であっても一瞬で魂を抜き去り、従順な犬に変えてしまう毒婦たち。
タチバナはこれまでの会話からディックの性格を分析し、彼が最も庇護欲をそそられ、好みそうな女性を厳選して最初の刺客として送り込んだのだった。もちろん万が一のことを考えて三人とも異なる魅力と手管を持った女たちだった。
ひとりは清楚で庇護欲を誘う女、ひとりは知的で対等に語り合える女、そして最後のひとりは剣を扱い武術でも腕自慢の豪快な女であった。
そして遠くからディックの反応を伺いながら、タチバナは薄く微笑んだ。
どんな男だろうと、この三人の前で理性を保ち続けることなどできはしない。
男という生き物の愚かしさと欲望の深さを研究し尽くした彼女は、密かに勝利を確信していたのだった。
しかし三日後のことである。タチバナ・マリは人生で初めて「驚愕」という名の冷や水を浴びせられることとなった。
送り込んだ三人の美女が、誰一人としてディックを落とせず、完敗して戻ってきたのだ。自室で肩を落とす三人に、タチバナは信じられない思いで尋ねた。
「手落ちでもあったというの? あんな若造一人、落とせないはずがないでしょう」
「いいえ、手落ちなどございません。ですが准尉様は、私たちのどんな誘惑にも目一つ動かさず、ただ静かに部屋から退出を命じられるばかりで……」
「あなたたちが落とせないなんて!彼は男色ではないし。ジェニー、聞かせてちょうだい」
「はい」
ジェニーが語ったのは、三日前、兵士宿舎での出来事だった。ジェニーは化粧で顔色を悪く見せかけ兵士宿舎でディックの部屋の扉にぶつかった。
「ドン!」
慌てて中からディックが出てきて扉に倒れてきたジェニーに救いの手を差し伸べた。
「負傷者の手当てで疲れました。少しだけ、こちらで休ませてくださいませ」
ジェニーの表情は疲れており、汗が滲んでいた。秋とはいえ妙に蒸し暑い日で多少はだけた胸元には胸の谷間がわずかに見え、その肌にも汗が滲んでいた。ジェニーが立ち上がろうとした所で足をもつれさせ、部屋の中に倒れ込む瞬間にディックに助けを求めて手を伸ばし、二人で部屋の中に倒れ込んでしまった。その際、ジェニーの身体がディックの厚い胸板に弾むようにぶつかってしまった。そのままジェニーは「足が・・・」といって起き上がれず、ディックの身体の上で身をくねらせた。しかしディックは冷静だった。
「お嬢さん、大丈夫ですか?宿直兵を呼びます。女性用の部屋へ案内させましょう」
「いいえ、もう歩けませんわ。足を挫いたようです。申し訳ありませんがそこにある寝台で横になってもよろしいでしょうか?」
「わかりました。では私は医官を呼び、部屋を変わりましょう」
「いかないで!足は痛いですし知らない部屋は怖いのです。震えと涙が止まりませんわ。安心させて頂けませんか」
「どうすればよろしいでしょうか?」
「まず寝台に運んでいただけますか。はい、ありがとうございます。そして私の震えが止まるまで抱きしめて下さい」
「それは・・・」
「女性の頼みをお断りに?」
「いえ、失礼します」
ディックはなるべく腕だけでジェニーを抱くようにし、胴体は接触させないようにしたが、ジェニーはすぐにそれを察知し、身体を固くすることなくディックに身を委ねるようにした。
「あぁ、安心できますわ。男の人らしい胸板ですわね。もっと安心させて下さい」
「どうすれば?」
「もっと密着して下さい。はい、そうです。だんだん震えが止まってまいりましたわ」
そうしてジェニーは身体をディックに押し付け、両腕をディックの背中に回し、自分の体に強く引き寄せた。同時に吐息をディックの首筋にあたるようにし、恥じらうように頬を赤く染めた。
「そんなにされては困ります」
「女性を安心させるのは紳士の役割ではなくて?」
「それは・・・そうですが」
「少し体勢をずらしましょう」
といってジェニーは太ももをわざとディックの足に触れさせてみた。
「すみません、足が触れてお嫌でしょう」
「いいえ、わざとではありませんので気にしません。そろそろ大丈夫そうですね、医官を呼びに行きます」
「あ、お待ちになって!」
その言葉を聞いたのか聞かなかったのかディックはさっそうと寝台から降り、医官を呼びに行った。
タチバナはこの報告を泣きながらするジェニーを見ながら思った。落とし方には何も問題はない。これで落ちない男など存在しないか、極端な男色家かのどちらかであるはずだった。他の二人の報告も同様であった。しかし、事前の調査によりディックが男色家でないことは恐らく確かだと思われた。
ならば、金かい?
タチバナは次に、匿名で莫大な金銭による買収工作を仕掛けさせた。だが、その報告を聞いたドギーが、砦の隅でくすりと笑う。
「ハァ、どこぞの物好きが積んできた金貨の山ですな、これは。ですが准尉殿は路傍の石ころでも見るような目で一瞥し、そのまま受領を拒否されましたぞ」
美色にも、黄金にも、一切の反応を示さない男。欲望の泥の中で生きてきたタチバナにとって、そのような人間はこれまでの人生でただの一度も見たことがなかった。
ある日の午後、砦の裏手で偶然ディックと二人きりですれ違う機会が訪れた。
タチバナはいつもの妖艶な仮面を脱ぎ捨て、鋭い観察眼をその瞳に宿したまま、すれ違いざまに核心を問いかけたのだった。
「ディック・シャドウ少尉さま。貴方さまはご結婚されていらっしゃいますの?」
ディックは歩みを止め、前を向いたまま答えた。
「私は少尉ではない、准尉だ。それに独身だ」
「では、お里に許婚か、将来を誓い合ったお付き合いされている女性でも?」
「いや。それも外れだ」
タチバナはふっと冷ややかな笑みを漏らすと、彼の前へと回り込んで行く手を遮った。
「そうですか? 風の噂で耳にいたしましたけれど、先日お薬を運んできた女性たちとの会話で、誰とも付き合うつもりはない、とはっきりと言われたとか。それって、つまり……もうご自身の中で「この人」と決めたお相手がいらっしゃるからでしょうか?」
その瞬間、ディックの端正な顔がわずかに強張り、不快そうに眉根が寄せられた。
「そのようなこと、貴殿にはどうでもいいことではないか!」
少々腹を立てた様子で、足早に立ち去っていくディックの背中。
それを見送るタチバナの脳裏に、電撃のような直感が走った。彼女の鋭い知性が、彼の頑なな心の奥底にある正体を完全に看破したのだ。
「なるほどね。あれは片思いだわ」
誰にも触れさせない高潔な魂。その裏にあるのは、決して届くことのない、しかし絶対に揺らぐことのない誰かへの盲目的な執着。
タチバナ・マリは立ち去るディックの背中に向けて、ぞっとするような、しかしどこか歓喜に満ちた歪んだ微笑を浮かべた。
「白銀の騎士様も泣き所があるんだわ。面白い!ゾクゾクするわ!」




