7-3 再会
不穏な動きが察知されてから約三ヶ月後、ついにクリスのもとへも開戦の報が届いた。
「クリス様、とうとう帝国軍が動き出しました。その規模は十万を超えています。国境二箇所の街道を南下中です」
「来たか!王国軍の迎撃体制は?」
「国境付近に八万の防衛兵力を集結させて布陣させたそうです」
「八万か、少ないな」
「仕方ありません。中央軍は定員三十万を誇るとはいえ、経済の停滞により実兵数は半数以下。さらに国内全域の治安が悪化しているため、各地に最低限の治安維持兵力を残さねばなりません。全軍を一か所へ集結させることは不可能です。なお、中央軍とは別に、王都周辺には左翼軍二万と右翼軍二万が温存されています」
「なるほど。軍司令部は、国境の八万が敗れても、右左翼両軍四万で絶対防衛線を敷けば撃退できると考えているわけか」
「おそらくは」
「まあ、そうだろうな。俺も元軍人だ。軍が考えていることはよく分かる。だが、それで国がなくなれば元も子もないぞ」
そしてさらに続報が届いた。
「クリス様、敵の総司令官が分かりました」
「名前は?」
「ディック・ブライトンです!」
「来たか!ディック!」
敵総司令官の名を聞いた瞬間、クリスの頬はわずかに上気した。対照的に、王国軍上層部は一斉に血の気を失ったという。
ディック・ブライトンは元王国軍人であり、前近衛兵団長の高潔なる子息である。十年前に帝国の侵攻を最前線で退け、九年前に帝国遠征で多大な武功を挙げた、紛れもない「王国の英雄」、「白銀の正騎士」と呼ばれた。その男が王国民の知らぬ間に帝国の少将へと登り詰め、祖国を滅ぼす大軍を率いて攻め込んできたのだ。
「クリス様、王国貴族庁はブライトン伯爵家の爵位を一時凍結とし、伯爵家および傘下の貴族勢力に対し、無期限の謹慎処分を言い渡しました」
「当然だな。身内が裏でディックと内通し謀反を起こす事態を防ぐための当たり前の処置だ」
だが、王国政府の懸念は全くの的外れに過ぎなかった。侵攻軍総司令官となったディックの胸中には、実家の家門も、配下貴族の安寧も存在していなかった。かつて姉・メラニアへ向けていた狂おしいまでの執着は、新しい家庭と愛する妻子を得たことで、すでに過去のものとなっていた。だが、姉を蹂躙した者たちへの怒りまで消えたわけではない。今の彼を支配しているのは、姉を蹂躙した教会と、それを隠蔽した王室への復讐心だけだった。
政治家へ転身し、議会を通じて戦況情報を分析していたクリスは、シロタへ声をかけた。
「軍令を下せる立場ではないが、仮にお前が王国軍総司令官ならどうする?」
シロタは眼鏡の奥の瞳をわずかに光らせ、淡々と答えた。
「そうですね、私なら、敵が国内へ押し寄せたことを逆に利用して手薄になった帝国の隙を突きます。右翼軍二万をそのままガルディニア帝国本土へ直撃させます。首都を再び奇襲工作で落としますね」
「ふむ、悪くない。だが、帝国へ通じる二つの国境街道は、現在ディックの十万によって完全に塞がれているぞ?」
「それは帝国軍がキャメリート街道の存在を知らないからです。このときこそようやく今まで秘匿としてきたキャメリート街道を使う好機でしょう」
「わかった。ではシロタ、国境突破後の帝国軍の行動を予測してその対応策をまとめよ」
「は!」
シロタは翌日クリスに提出した。
「早いな」
「はい、以前からこのような日が来ることを想定して作っておりましたので」
「そうか。ではざっと口頭で説明せよ」
「は!まず帝国軍が国境を突破後に取る進軍行動を四つに分類しました。そしてそのすべての進軍予測に対する迎撃案を作りましたが、口頭では四つの進軍予想をお伝えします」
シロタは報告書の一枚目と地図を開き、四つに分けた項目と地図を順に指で示した。
1.帝国軍が国境を越え、穀物地帯を襲って穀物を略奪し、帰還する。
2.帝国軍が山間部の鉄鉱山を襲撃し、さらに穀物地帯に塩を撒き、王国の経済を破壊する。
3.王国の各種軍事施設を襲撃し、帝国への軍事侵攻を今後何年もできないようにする。
4.国境を越えた後、帝国軍が南進、ティーツー要塞を落として王都を襲撃する。
「なお、これらに関する迎撃案も作ってありますがそれは報告書でご確認ください」
シロタの頭脳の恐ろしさに、クリスは内心で深い満足の笑みを浮かべるのだった。
情報部上がりの二人が不気味な密談を交わしていたまさにその頃。 実際の国境線においては、敵味方ともに一滴の血すら流すことなく、ディック率いる帝国軍によってあっけなく突破されていた。
ディックは二箇所の国境警備隊司令官へ向け、降伏勧告書を送り届けていたのだ。
特に東方国境警備隊は、ディックが若き日に一兵卒から這い上がった勝手知ったる古巣である。要塞の構造的な欠点も、兵士たちの状況も隅々まで熟知していた。
送りつけた勧告書の中で、ディックは要塞の致命的な弱点を具体的に指摘し、さらに近年の経済困窮によって満足な糧食も届かず、武器も錆びつき、極限まで飢えている現状を冷酷に突いた。
「私は元アルカディア王国軍人、そして現在はガルディニア帝国軍人であるディック・ブライトン大将軍である。王国国境警備隊の諸君、即座に白旗を上げて投降せよ。さすれば帝国軍の豊富な糧食をもって諸君の腹を満たし、命と尊厳を完全に保証する。 もし無駄な抵抗を試みるならば、この要塞の構造を知り尽くした私が、一人残らず皆殺しにして突破する」
白銀の英雄ディックの圧倒的な威名と、空腹という絶望的な現実。 勧告書の提出からわずか半刻後、東方国境警備隊は城門を開き、総員が涙を流して投降してきたのである。さらに、赴任経験のない西方国境警備隊に対しても、過去の視察記憶から弱点を完璧に割り出し、同様の勧告書を送りつけて無血開城させたのだった。
二十八歳の夏、鮮血の覆面を脱ぎ捨てて命からがら逃げ出して以来、実に約八年の歳月を経て、ディックはガルディニア帝国軍少将として、堂々と祖国の土を踏みしめたのである。
馬上でディックは自問自答した。 過去の自分なら、このような回りくどい真似はせず、己の武勇で叩き潰していただろう。だが今、ディックの側には忠義のドギーがおり、さらに帝国軍において中尉にまで階級を進めたスパイクが参謀として控えていた。このような策略を巡らすたび、ディックの脳裏にはなぜかクリスティ・ギャロットの冷徹な横顔がよぎった。
国境を越えて王国へ入ったディックは、司令部の天幕において「ある男」と久々の再会を果たしていた。この再会は、突発的に実現したものではない。すべては侵攻開始のおよそ一年前、ヴァルディス共和国で結ばれた密約に始まっていた。
ベイク・ランスリー。十四年前、ディックが東方国境の最前線で死闘を繰り広げ、計略をもって生かして逃がした元山賊首領である。ディックは帝国での地位を確立した後、ドギーを極秘裏に動かし、ヴァルディス共和国へ逃れたベイクの行方を長年追わせていた。 ドギーは「ベイクの知略なら権力の中枢に出入りしているはず」というディックの推測を頼りに、首都の高級官庁街の食堂や酒場へ毎日通い詰めた。そして捜索開始から二年目の冬、ついに見覚えのある不敵な面構えの男を捉えたのである。
「おい、大将。出世して元気そうじゃねえか。うちの坊っちゃんが会いたがってるんだな」
「あん? お前は誰だ?どこかで見たような、見てないような・・・」
「命の恩人を忘れたのかな?俺だよ、俺」
「うーん、どこで会ったかな?思い出せん」
「仕方のない奴だな、王国だな、王国。お前、山賊やってただろ!」
「あー!思い出した。確かお前は・・・ボギーだったな!」
「・・・ドギーな」
こうして再会した二人は酒を酌み交わし、翌日、密室で本格的な交渉に入った。
山賊の首領から身を起こしたベイク・ランスリーは、密輸組織で築いた物流網と裏社会の情報を共和国政府へ売り込み、その能力を買われて官僚組織へ取り立てられた。
「で、帝国のドギーさんよ。用件は何だ?」
「来年の春、我がガルディニア帝国はアルカディア王国へ過去最大規模の侵攻を敢行するんだな。総司令官はうちの坊っちゃんだな」
ベイクは驚愕で酒杯を止めた。
「何のために俺へ明かす?」
「正直に言おう。十万の大軍をもってしても、帝国の無能な軍制では王都を叩き潰すのは容易ではない。だが今回失敗すれば次はないんだな。これがディックという男にとって、最初で最後の祖国復讐のチャンスなんだよな。ベイク・ランスリー。お前だって、王国へ復讐したかったはずだろうな?」
ベイクの濁った瞳が怪しく光った。冷徹な計算の末、彼は不敵に笑った。
「へっ!乗ってやる。ただし報酬を要求するぞ。王都が陥落した暁には、あの傲慢な貴族どもを皆殺しにし、ご令嬢たちを俺の奴隷にする権利をくれ。さらに王国辺境部にある山林の全利権、そして俺個人への政治的特権だ」
「殺害と女の略奪は認められんな。だが、王国崩壊後に没収された山林の利権については有利に交渉できるはずだ。政治的特権とは何なんだな?」
「王国滅亡後の新体制における、俺個人への『絶対的な不逮捕特権』と『永久の免税措置』だ」
ドギーは冷酷に頷いた。
「絶対的不逮捕など認められん。保証できるのは、王国攻略以前の罪と、今回の軍事行動に関する不訴追だけだ。だが征服後の新たな犯罪まで免責することはできん。これなら、総司令官ディックの名と、俺の命を懸けて保証するんだな」
「交渉成立だ。我が全力を挙げて、ディックの背中を押してやろう」
「動かせる戦力はどのくらいだな?」
「共和国の裏社会、俺の息がかかった武装密輸団、腕利きの元傭兵をかき集める。五百の実戦部隊でどうだ?」
「十分だな」
「だけどドギーさんよ、相変わらずの話し方、少し鬱陶しいんだな!」
そして今、約束どおり五百人の実戦部隊を率いたベイクが、王国の地でディックと合流したのである。
かつて王国を追われた伯爵家出身の英雄ディックと、元山賊にして現共和国官僚の怪物ベイク・ランスリー。そして今、約束どおり五百人の実戦部隊を率いたベイクが、王国の地でディックと合流したのである。




