6-4 空白
ディックがアルカディア王国から姿を消し、帝国にて亡命大尉として処遇された頃。 王都の中央軍情報部では、クリスが暗く重苦しい雰囲気の司令官室へと呼び出されていた。冷徹な視線を向ける司令官たちが、デスク越しに問い詰める。
「クリスティ・ギャロット少佐。貴官には以前の教会告発事件について、即座に差出人を特定せよとの命令が下されていたはずだ。未だに報告が上がってこないのはどういう理由だ?」
クリスは表情ひとつ変えず、軍人としての姿勢を保ったまま答えた。
「申し訳ありません。実は、告発者の正体自体はすでに判明しております。ただ、特定した時期があまりにも悪すぎました。まさにディック・ブライトン大尉による、あの覆面兵団の暴動の渦中であったのです。混乱を避けるため、騒動が完全に収まり次第ご報告すべく、極秘裏に資料を編纂しておりました」
「そうか。貴殿ほどの男にしては随分と手間取ったものだな」
「重ねてお詫び申し上げます」
「ふむ。ブライトン伯爵家のメラニア嬢は実家から正式に勘当され、伯爵家という後ろ盾を完全に失ったと聞く。とはいえ、野放しにはできん。本人は教会の不祥事を告発した当事者だ。今後、王室や教会を脅す材料に使わぬとも限らん。一刻も早く捜索し、完全な口封じを行わねばならん」
実はこの時点でメラニアは娼館からオルガノ公爵に引き取られ、オルガノ家別邸に囲われていることをクリスは把握していた。 だが、わざわざ上層部へ知らせる必要性を微塵も感じなかったため、沈黙を貫いたのだ。幸いにも直接の捜索命令が下されなかったため、クリスはその案件を暗闇の中へと放置した。
それから、瞬く間に三年の年月が流れた。
この三年間の間になんと、シロタが婚姻を結んだのだ。相手はメラニアの侍女をしていたミルキー・ランダーであった。クリスは祝福をよせ、シロタに十日間の休暇を与えた。そして婚姻した翌年には早くも女児が生まれ、名をスージー・シロタとつけられた。
そしてこの三年間、宿敵ガルディニア帝国は国境付近に一切の牙を剥かず、かつて頻発していた侵攻はピタリと途絶えていた。 しかし、クリスらが張り巡らせた各国情報網からは、国際情勢の不気味な地殻変動が次々と報告されていたのである。
ガルディニア帝国では、国を挙げての旧皇城再建が進められ、放牧農場の拡大、そして豊富な森林資源、銅製品、青銅製品の増産と輸出が推進されていた。特にヴァルディス共和国に対する木材輸出量は、以前の五割増しという数値を叩き出している。共和国側が輸送船を大幅に増産して輸入に回したことも大きな要因であった。 こうして国力は急速に回復し、荒廃していた国内の学校教育にも手が届き始めていた。
そしてアルカディア王国にとって最大の脅威となったのは、帝国は共和国からあの「鍛層剣」の大量輸入を実現させてみせたことだった。帝国がどのような外交カードを切ったのか不明であったが焦った王国側も必死に新たな外交ルートを模索して鍛層剣の輸入を試みた。しかし、交渉はことごとく失敗した。
その裏で仕掛けているヴァルディス共和国は、以前にも増して積極的な加工貿易を展開していた。王国や帝国、公国、蛮国などの各国から様々な素材を輸入し、高度な技術で製品化した後に高値で輸出する。工場の新設や技術水準の向上に余念がなかった。
更に毎年秋に王国から輸入している穀物についても買付量と金額を上げ、意図的に王国内の食料不足を招くようにした。しかしそこは王国としても自国の食料を不足させてまで輸出を増やすことを選ばなかったが、それでもかなりギリギリまで共和国は穀物を買い占め、王国でもし翌年に穀物の不作となれば一気に不安が顕在化する可能性があった。
躍進する二国に対し、アルカディア王国の経済は徐々に停滞し、腐り始めていた。 原因不明のまま王国内の穀物生産量が年々目減少していたのだ。原因は様々にあるが、共和国から輸入している農業用肥料の品質を、共和国側が意図的に低下させていることにもある。だが、高度な検査技術を持たない王国では、根本的な原因を突き止められなかった。
食料品価格は値を上げ、農家が副業で営む日用品や保存食の物価も上昇。王国民の困窮と不満は、いつ暴発してもおかしくない臨界点に達しつつあった。
この混沌とした三年の間に、クリスは中央軍情報部の序列二位の座へ、文字通り神速で登り詰めていた。
転機は一年前に遡る。当時の情報部副司令官少将が高齢で引退したことで席次が繰り上がり、クリスは中佐へ昇格した。自らの武功による昇格ではないことに不満はあったが、クリスは復讐のための大いなる運命として冷酷に受け入れていた。
一方、ガルディニア帝国へ亡命し、「皇城再建護衛責任者」となったディックは、見事なまでにその職責を全うしていた。
彼は皇城周辺の治安維持のため、持てるすべての力を尽くした。 ある時は残忍な盗賊団を討伐し、ある時はスリ、そしてある時は少年たちで組織された窃盗団を自ら突き止め、事件解決に尽力した。雨の日に泥水へ車輪を取られた平民の馬車があれば自ら鎖を引いて助けに向かい、突然産気づいた貧しい妊婦がいれば、抱えの産婆を自らの軍馬の後ろに乗せて王宮街を駆け抜けた。
そして、配下の護衛隊に対しては「略奪、婦女暴行、恐喝、傷害は絶対厳禁。破った者は即座に憲兵へ引き渡し極刑に処す」と宣言し、凄まじいまでの綱紀粛正を徹底させたのだ。この地道で完璧な民心掌握と卓越した軍政手腕は、帝国軍上層部から極めて高く評価された。 亡命から二年後の春、ディックは亡命大尉の身分から、ついに「少佐」へと異例の昇格を果たす。
だが、その昇格もすんなりとは決まらなかった。異を唱えたのが、現皇帝の次男にして皇位継承権第二位、ジャコフ・ガルディニア親王であった。
「亡命者であるディック・ブライトンをどこまで信用なさるのですか?確かに軍人としては優秀かもしれませんが、ブライトンの忠誠心がどこを向いているのかわかりません!」
「ジャコフよ、そなたの言うこともわかるが、政治や軍事はそう単純なものではない。忠誠心無き軍人を背かせないようにすることもまた、上役、ひいてはワシの役目であろう」
皇帝は側近に命じた。
「ディック・ブライトンの昇格は帝国の有力者と縁付かせてからにせよ」
その結果、ディックは帝国名門貴族家のご令嬢との婚姻を強く薦められることとなった。皇帝陛下の下命もあったが軍としてもディックの能力は活用したい、だが背かれては困る、ということで対策を考えていたところであった。
そしてディックも愚かではない。この婚姻は余所者である自分を帝国側へ繋ぎ止めるための政治的な「首輪」であることは承知だった。しかし、彼はこれを満面の笑みで引き受けた。拒絶すれば出世の道が閉ざされるばかりか、暗殺される危険があると見抜いていたからだ。全ては祖国・アルカディア王国へ鉄槌を下し、自らの力で王国を再建するためである。その力を得るためディックは婚姻を受け入れ、厳かに式を挙げた。
式は地域の荘厳な教会で執り行われた。 新婦は由緒正しき貴族のシーナイン家の軍人令嬢であった。そのため相手側からは豪華絢爛な参列者、そして新婦の上官が多数詰めかけたが、亡命者であるディック側の参列者は、忠実な副官ドギーとスパイク、護衛隊の部下数名のみという寂しいものであった。
「坊っちゃん、良かったですね」
「坊っちゃんはやめろ、と何度言ったら分かる?」
いつものやり取りを交わし、その日の夜、ディックは運命の初夜を迎えた。ディックは三十歳にして、完全な童貞であった。 その純潔を守ってきた反面、猛烈な気恥ずかしさに苛まれていた彼は、寝台の中で素直に打ち明けた。
「実は、恥ずかしいことだが私には女性経験が一切ない。不手際があるかもしれないゆえ、申しておく」
すると、恥ずかしそうに俯いていた新婦も、蚊の鳴くような声で囁いた。
「私も、男性経験がございません。今夜が初めてなのです」
その瞬間、ディックは新婦を心から愛しいと感じた。 だが皮肉にも、その瞬間にあれほど狂おしく愛した姉・メラニアの残影が脳裏に浮かんでは消えたのだ。このような葛藤を抱えたまま、二人は絹の寝台へと潜り込んだ。
そして緊張する新婦の方を向いた瞬間、まるで脳が気絶したかのように意識が断絶したのだ。そこから翌朝までの間、ディックの記憶は完全に消失していた。翌朝、眩しい朝日の中で目覚めると、身に纏っていた寝間着はすべて剥ぎ取られ、完全な全裸で寝ていた。隣に横たわる新婦も同様であった。
ディックが起きた気配に気づいた新婦は、布団を胸元まで引き上げ、顔を真っ赤に染めて呟いた。
「ディック様、昨夜が本当に初めてでしたの? あまりの、その、凄まじい情熱に、私っ!」
ディックは混乱した。 何しろ、昨夜自分がどんな交わりをしたのか、全く何も覚えていないのだ! だが、実は記憶がない、などと言えば夫として失格である。ディックは内心の冷や汗を隠し、堂々と寝台から立ち上がると、悪戯っぽく振り返った。
「ならば、昨夜の続きでもどうかな?」
ボスッ!
直後、もの凄い勢いで枕が顔面に飛んできた。新妻フェリスの愛らしい気恥ずかしさを、ディックは全身で理解したのだった。
ディックを迎えた新婦の実家「シーナイン家」は、帝国の侯爵家であり、農業・経済・土木政策において圧倒的な実績を持つ名門であった。 そんな有力貴族であっても軍部に対する影響力は先代までまったくなかった。そのためシーナイン家では長女を軍に入れ、軍の高官と婚姻を結ばせることで何とか軍部に対する影響力をも手に入れようとしていた。
そんな事情もあるがシーナイン家とすれば長女の婚姻相手は軍人の高官ならどんな相手でもいい、というわけではなかった。亡命者であるディックに娘フェリスを嫁がせた背景には、ディックの優れた軍事手腕と、しがらみのない素性の良さを身内に取り込む高度な政治的計算があったのだ。ディックもそれを感じつつ、自らの軍の頂点へ立つこと、という目的のために実績を積み重ねていった。
二人は皇城の城壁付近に小さな屋敷を借り、つつましくも温かい暮らしを始めた。 フェリスはその可愛らしい笑顔と気取らない人柄で、たちまち下町の人気者となっていく。ディックにとっても、最初は「あてがわれた人形」に過ぎなかったフェリスであったが、日々の生活を共にするうちに、止めようもなく彼女の深さと優しさに惹かれていった。
そして奇妙なことに、夜の寝室においても、回数を重ねるごとに最後の一瞬まで完璧に意識を保っていられるようになっていったのだ。
そう、ディックは姉・メラニアへの歪んだ執着が強すぎたせいで、『メラニア以外の女性と寝台に入ると意識が消失し、肉体だけが野獣のように動き回る』という重い精神疾患にかかっていたようだった。 しかしそれすらも、フェリスの純粋な献身と深い愛によって見事に克服されたのである!
心にも身体にも何の障壁もなくなったと知ったその瞬間、ディックの内に激しい後悔と、底知れない肉体の歓喜が突き上がってきた。なぜ私はこの素晴らしい体験を今まで拒絶してきたのだ!?
最初は姉上と、と頑なに信じ込んでいた聖域の殻が完全に突き破られた。愛するフェリスの温もりに触れ、これまで知らなかった深い幸福感に包まれた瞬間、ディックはようやく過去の呪縛から解放されたのだった。
翌年春、皇城の壮大な再建工事が完了を迎えた。 華々しい式典において、ディックは皇帝陛下の御前で大いなる表彰を受け、さらなる昇格が公式発表された。
「ガルディニア帝国軍中佐への昇格。並びに、帝国軍部隊の中級指揮官へ任命する!」
ディック三十一歳の夏、昇格から数ヶ月後に屋敷ではフェリスが見事な男児を出産し、ディックは一児の父となった。ディックの目標は、帝国軍の「侵攻軍司令官少将」の座、通称、大将軍につき、あの腐りきった王国へ鉄槌を下すこと。あと二つの階級を進めれば、その絶対的な権力に手が届くところまで肉薄したのだ。
だが、帝国軍内で急速に地位を高めていくディックを、警戒の目で見つめ続ける者がいた。ジャコフ・ガルディニア親王である。
「ディック・ブライトンの能力はいいだろう。帝国を裏切れないように婚姻させ、子供まで生まれた。これも認める。しかしディック・ブライトンに王国侵攻軍の司令官だけはさせられない。もし司令官になり王国へ攻め込むとする。直後に帝国を裏切り、王国軍と呼応して帝国に攻め込んだらどうなる?一瞬で帝国は滅びるぞ」
この懸念を実父である皇帝陛下へ奏上したこともあるが、「対策は考えてある」という返事しかこなかった。そして皇帝は王国に放ってあった諜報員からの情報でメラニアの存在を掴んでいた。そして過去の出来事、ディックが亡命に至った経緯もある程度までは確認していたのだ。そして配下に命令を下してあった。
「メラニア・ブライトンを探して帝国へお迎えしろ。これはディック・ブライトンを裏切らせないための急務である」
だが結果的にこの下命は実現されなかった。
「ドギー、ドギーはいますか?」
フェリスの大きな声が早朝から木霊した。
「はい、奥さま」
「ドギー、すぐに婚姻しなさい!」
「突然どうされましたか?奥さま」
「突然じゃありません。ずっと考えていたことです」
家庭を持つと新しい坊っちゃんのために命を張れなくなる、と言って長年、婚姻をせずにきたがフェリスに一喝された。フェリスは生まれたばかりの長男をあやしながら続けた。
「ドギー、あなたが突然死んだり病気や怪我で斃れたらこの子を支える人が減るではありませんか!今すぐ誰かと婚姻を結んで男児をもうけなさい!そしてこの子の側近を育てるのです!」
「いやあ奥さま、そうは申されましても婚姻を結ぶ相手がおりません」
「馬鹿なことを言うんじゃありません!その辺の適当な女でいいんです。子さえ産めれば!」
「奥さま・・・」
そして一週間後にフェリスはシーナイン家に出入りしていた商人からの紹介でドギーの婚姻候補となる女性を連れてきた。そしてドギーに面会をさせた。
「はじめまして、ミナリー・グランと申します」
「ドギー、この人は最高よ」
「お、奥さま、何が最高なのですか?」
「お尻が大きいわ。安産型よ」
「・・・・・・」
「名前もいいし、見た目もいい。あなた、そういえば何歳?」
「今年二十八になります」
「ほら、いいじゃない。ドギー」
「奥さま、私にも少しお時間を・・・」
「わかったわ。明日のお昼頃までに決めてちょうだい」
その後、ミナリーとドギーは二人きりでしばらく語り合った。そして翌朝、ドギーはミナリーと二人でフェリスの元へ行き、「婚姻させていただきます」と頭を下げた。 こうしてドギーも家庭を持った。
そして二人が婚姻を結んだ翌年、妻ミナリーは無事に男児を出産し、その子はコーガルと名付けられた。それはディックが三十二歳の夏を迎えた時の出来事であり、奇しくもディックとフェリスの第二子が産まれた年でもあった。
我が子を抱き、権力の階段を駆け上がるディック・ブライトン中佐。 そんな彼が、ふとした瞬間に思い出すのは、かつて世界のすべてだった姉・メラニアの幻影であった。姉上は今、一体どこで何をしているのだろうか。私が他国の女と結婚し、子供まで設けたと知ったら、一体どんな顔をされるだろうか。
胸の奥の澱に思いを馳せるディックであったが、彼には知る由もなかった。当のメラニアのこの三年間が、完璧な闇の中にあったことを。
メラニアをオルガノ公爵家へ結果的に押し付けたクリスは、定期的に諜報員を公爵邸へ潜入させてメラニアの状況を調査させていた。その結果は実に驚くべきものであった。
当初の報告では、メラニアは公爵邸から一歩も外へ出ることを許されず、公爵の歪んだ愛欲の奴隷として調教され続けているという内容だけであった。だが、ある日の調査結果ではメラニアが公爵を鞭打つ姿があった、とされ、そして最近の報告では支配されていたはずのメラニアが逆に公爵を支配するところまで逆転していたのだ。そして昨日の報告では、隠し部屋のメラニアはゆったりと壁際の寝椅子に横になり、公爵と媚薬を使ったと思われる若い女性が交わる姿をワイン片手に見ていた、というものであった。
これにはさすがのクリスもメラニアを再評価せざるを得なくなっていた。
「タチバナはいるか?」
「はい、クリス様」
「メラニアが復活した」
「はい、そのようですわね」
「お前とメラニア、どっちがすごい女なのだ?」
「あら、クリス様。それはひどい言いようではありませんか?」
「そうだな、許せ」
「もちろんメラニアの方が凄いですわ。私には媚薬まで使って男を支配する執念はございませんもの」




