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ヒュービック大陸興亡記  作者: 田中好雄
第5章 受難!ブライトン兄妹
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5-8 亡命

日が沈む頃、覆面兵団は静かに後退し、解散の時を迎えていた。

大きな理由は食料の枯渇であった。いくら高い大義を掲げようと、空腹には勝てない。ましてや千人規模に膨れ上がった群衆を養う余力など、ディックには到底なかったのだ。

解散を前に、ディックは集まった覆面兵たちへ深く頭を下げた。


「皆の者、不徳な教会に立ち向かってくれたこと、心より感謝する! 今回の戦いで傷つき、あるいは倒れた者たちには、後日私のできる限りの補償と支援を約束しよう!」


そしてディックはドギーと筆頭執事へ命じ、帰る場所のない逃亡奴隷や身元を知られた者には、伯爵領内の隠れ家と偽造した通行証を与えた。ディックとドギーは最後まで軍隊式の敬礼を崩さず、集まった平民や奴隷たちへ誠心誠意の謝意を示し続けたのだった。


覆面を剥がされ 、正体が露呈した以上、もはや伯爵家の陣頭に立つことはできない。 この報が届けば、避暑先から兄が血相を変えて戻り、自分は即座に拘束されて暗闇の中で処理されるだろう。それだけは避けねばならなかった。正義は我にあったはずだ。だが正義だけでは勝てない。圧倒的な権力と力が伴わねば、己の正義を貫くことすらできないのか。


胸を刺す激しい敗北感の中、ディックは心の奥底に眠る「姉」の姿をそっと思い浮かべた。メラニア姉さん。こうなってしまっては、もう結ばれることもないだろう。生涯をかけて愛した初恋の人。ディックは痛む胸を押し殺し、メラニアへの情念を心の最も深い場所へ封じ込めたのだった。


身支度を整えたディックは、伯爵家の筆頭執事を呼び寄せた。


「私はこれより、国外へ亡命する。私の個人資産をすべてお前に預ける。今回の戦いで犠牲となった当家、および傘下の貴族家の兵たち、そして協力してくれた平民や奴隷達へ、補償金と見舞金として支払ってくれ」

「ディック様!」


最小限の旅費と一振りの剣だけを携え、ディックは馬にまたがって夜陰に紛れ、東の国境を目指して駆け出した。馬蹄の音が、夜の街道へ硬く響いた。背後から、もう一頭の馬が当然のような顔をしてついてくる。


「ドギー! お前に罪はない、屋敷に残れ!」

「嫌ですよ、坊っちゃん」

「坊っちゃんはやめろと何度言ったら分かる!?」

「まあまあ、坊っちゃん。私は亡き父母の葬儀で聞いた坊っちゃんの言葉、そして墓標の前にたたずむ坊っちゃんを見て決めたんです。この方と共に生き、死のう、と」

「おい、やめろ。何度その話をするんだ!」


ドギーの両親は、共にブライトン家へ仕えた平民だった。ドギーが十五歳の時、二人は不慮の事故で亡くなった。参列者も少ない質素な葬儀へ、十二歳のディックは一人で姿を見せた。


「ドギー、何か力になれることはないか?」

「ディック様、その一言だけで十分です」


埋葬が終わった後も、ディックは小さな墓標をいつまでも見つめていた。その背中を見た時、ドギーは生涯この人へ仕えようと決めたのである。後年、王国各地を歩き、平民の暮らしへ目を向け続けるディックを見て、その誓いは確信へ変わった。


そしてほどなくもう一つの馬影が近づいてきた。


「スパイク、どうした?」

「ディック様。やはりディック様の作戦は穴だらけです」

「なんと、ここでいうか?」

「はい。覆面兵団の動きを見ていて頭を抱えてしまいました」

「そうか」

「はい。ディック様の行動は直線的で読みやすく、裏工作を心配する必要がありません」

「・・・・・」

「でもそんなディック様がこの後、どうなさるのか、私には興味しかないんです」

「お前な・・・」

「王国に残る案は最悪です。生存率が低すぎます」

「まあそうだろうな」

「ということは亡命しかありません。なので私は自分の知的好奇心を満足させるために、同行します」

「おい、本当にやめろ。お前にも父母がいるだろう?」

「それはディック様にも言えることです。あと私は次男ですので家の跡継ぎのことは心配ありません」

「もう、・・・・・勝手にしろ!」

「良かったですな、坊っちゃん」


一方、王都を揺るがした前代未聞の暴動劇は、すぐさまヴァルディス共和国の大統領府へともたらされていた。

報告を受けたウィリー・クーパー大統領は、しばし顎を叩いて考えを巡らせた後、冷徹な指示を下した。


「国境守備隊へ通達せよ。もしディック・ブライトンが我が国への入国を希望しても、追い返せ。絶対に足を踏み入れさせるな」

「はっ!」

「それと、可能であれば、騒動の発端となった『被害女性』の身元を探し出し、極秘裏に我が国へお迎えするのだ」


クーパー大統領には目論見があった。 聖導教会の決定的な醜聞を知る被害女性を押さえ、口を封じて脅迫の材料にするか、あるいは国際舞台で公表させて「アルカディア王国の教会の腐敗」を世界に知らしめ、王国の権威と国際的評価を暴落させる手駒として利用しようと考えたのだ。


クーパー大統領は、ディックを共和国へ迎え入れても利用価値は低いと判断していた。たとえ軍人として出世させても、共和国から王国へ攻め込ませるのは共和国にとって利が薄い。何よりも民衆の合意を得られまい。それならば帝国へ流し、王国と再び争わせた方が好都合である。


さらに大統領は、本国から王国内の教会組織へ裏命令を発令させた。


「今のまま無茶な搾取と圧政を続けさせよ。ただし、暴発はさせるな。ギリギリで止めておくようにしろ」


王国の緩やかな内部崩壊は、ヴァルディス共和国の黒い手によってさらに加速させられていくのだった。


東の国境へと辿り着いたディックは、ヴァルディス共和国への入国を試みた。 しかし、理由は告げられぬまま極めて事務的な拒絶に遭い、追い返されてしまう。残された選択肢は二つ。 南下して手つかずの密林が広がる蛮国へ逃れるか、北の旧敵・ガルディニア帝国へ向かうか。


南の蛮国は、大河の向こうに広がる毒虫や毒蛇うごめく熱帯森林であり、半裸の原始的な人々が暮らす交流不能な地域、と多くの王国民は考えていた。ディックにそこへ足を踏み入れる気など毛頭ない。他にはナカーディア公国があるが、共和国を経由しなければ行けないし細くて危ない海峡を長々と船で渡る気も無い。


そしてディックには心に秘めた野望があったため、必然的に蛮国と公国への亡命は選べなかった。消去法により、残された道はただ一つ。かつて刃を交え、攻城戦で打ち破った北の寒冷地、ガルディニア帝国への亡命であった。失意と挫折を胸に抱いた、国外への脱出。 ディック・ブライトン、二十八歳の夏のことであった。


「ドギー、スパイク、帝国へ亡命するぞ」

「それしかありませんな」

「だがついこの前攻め込んだ相手だ。亡命を受け入れてもらえずに殺されるかもな」

「まあそうなればそうなったで致し方ありません。そのときは私もお供しますから寂しくはありませんよ」

「馬鹿なことをいうな。そうなったらお前は生きて姉上を守れ」

「・・・・・」

「私は死にませんよ!」

「分かってる、スパイク!」


ディックは、メラニアを妻として求める情念を、心の最も深い場所へ封じ込めた。姉を愛する気持ちまで消せるはずはなかった。


「ですが坊っちゃん、坊っちゃんが抱いていた目標はこれで諦め、ですな」

「何を言う、ドギー。俺は全然諦めてなんかいないぞ!」

「はぁ?これから帝国に亡命するわけですが・・・」

「俺の目標は微塵も変わらん。俺は将来的に王国軍を背負って立つ。そして無駄な戦争をなくして軍内部の不正と腐敗を正すぞ」

「坊っちゃん・・・」


ドギーはまったく理解ができなかったが、主人の決意は尊いものとして受け止めよう、と思った。


「ドギー、そんな小さな子供を見るような目で見るな!俺は本気だぞ」

「嘘ですよね?」

「嘘じゃない。俺は亡命したら帝国軍に入る。そして出世して将来は王国に攻め込む。そして王国を一旦滅ぼすが必ず再興して王国軍も再建する。そしたら俺がその王国軍を背負う!」

「そ、それは無理では・・・」

「無理かどうかなどやってみなければ分からん!」

「まあそれはそうですが」

「グダグダ言うな!俺はやるぞ!」

「ですが坊っちゃん、無駄な戦争は減らすのでは?」

「俺が言った戦争は無駄ではない、必要な戦争なんだよ!」


ドギーはディックの話のあまりにも非現実的なことに呆れたが、でもそのような高い理想をもつ主人を頼もしくも思った。

「まあ亡命して腐るよりは遥かにマシですな」


なお、これら一連の出来事について、全てが王国全軍司令部記録処の若手担当官、リノス・ヤーヴェア少尉二十六歳によって詳細に記録され、王国軍書物庫に納められた。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第5章ではブライトン兄妹の受難を描きました。

次章は主要キャラクターたちが困難に直面してもそれぞれの道を歩み続ける姿を描きます。

どうぞご期待ください。


もし本作を面白いと感じていただけましたら、ページ下部の星マークからの評価や、感想をいただけると励みになります。

引き続き『ヒュービック大陸興亡記』をよろしくお願いいたします。

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