5-7 覆面
王国の夏は蒸し暑い。夏の山々は緑が濃く、穀物地帯には青々と茂った穀物の苗が順調な生育を見せている。南の蛮族国方面から流れてくる湿った風により王国じゅうが湿り、ジメジメとした暑い時期となる。
この夏の蒸し暑い時期、ブライトン伯爵家の当主は避暑のため、一ヶ月ほど霊峰マウント・ヒュービック中腹にある高級貴族御用達の別荘へと出かけて行った。 これは王室行事の一環であり、国王陛下をはじめ主要な貴族が毎年この時期に必ず国王に付き添い、避暑のために霊峰の中腹で過ごす夏の定番であった。
今年は前近衛兵団団長だったディックの父が神の元へ召され、変わってディックの兄が当主となり王室行事の一環として霊峰へ出向いたため、当主不在のこの期間のみディックが「当主代行」を引き受けることとなった。
当主代行としての引き継ぎが完了した翌日。ディックは筆頭執事へ向けて、衝撃的な命令を下した。
「伯爵家、および我が家に連なるすべての護衛・警備兵を即刻招集せよ!」
王国の貴族社会は厳格な三角構造で成り立っている。 王家の下には公爵家が二家、侯爵家が四家、伯爵家が八家、子爵家が十六家、男爵家が三十二家存在し、この数は不変である。王国では政府貴族庁が貴族家の数を厳格に管理し、各家格が必ず二つの直系下位家を統括する制度を取っていた。
男爵家以上の貴族には、王家から私兵の維持費が支給されている。公爵家で約二百人分、侯爵家で約百五十人分、伯爵家で約百人分、子爵家で五十人分、男爵家で十人分。これらの護衛兵は毎年軍隊での実戦訓練が義務付けられており、王都防衛の際にはそのまま実戦部隊として機能する精鋭たちであった。当主代行となったディックは、一時的に最大二百四十人の私兵を動かせる立場にあったのである。
「ドギー、以下の命令を伝達せよ。配下の子爵家にはそれぞれ私兵二十五人を、配下の男爵家にはそれぞれ私兵五人を出すように。我が伯爵家からは八十人を出すぞ!」
「坊っちゃん・・・それはちょっと・・・」
「行け!ドギー!」
ドギーに伝え、総勢百五十人規模の兵を集めるよう命じたのだ。だが、臨時代理に過ぎないディックの無謀な指示に、子爵家や男爵家がすんなり従うはずもなかった。
「ドギー殿、いくら伯爵家からの命令とはいえ、ディック様はあくまで臨時の当主代行。これほどの動員には従いかねます」
「分かっております、子爵様。しかし伯爵家としての家格、そして何よりも社会正義と不正を正すためなのですな。もちろん子爵家には一切の責任が及ばないよう、そして必ずや利益をもたらすことをブライトン伯爵家の名に懸けてお約束しますな」
「そのお約束は公式書面でいただけますかな」
ディックが知らぬところで汗をかくドギーはいつもより生き生きとしていた。ドギーの奔走により、何とか百五十人の兵が集められた。 全員の前に立ったディックは、挙兵の目的を熱弁し、助力を乞うた。納得がいかぬ者には退去を許し、残る者には相応の報酬を約束した結果、約百人の精鋭がその場に残った。
ディックは、ドギーにあらかじめ作らせていた「あるもの」を配らせた。
「これは覆面である! 我らに正義あれど、一時的に教会と敵対する形となる。顔を隠すのはやましい事があるからではない! 将来の不当な扱いから身を守るための、致し方のない措置だ!」
自分に言い聞かせるように叫ぶと、ディックは大義名分を掲げ、朗々と宣言した。
「現在の教会は腐敗し、倫理は地に堕ちている! 最高司祭である国王陛下の威光を笠に着て平民や貴族から寄付金を貪り、婚姻前の女性へは屈辱的な処女検査を強要し、挙句には処女膜再生の儀式と称して凄惨な婦女暴行を繰り返している! ここまで歪んだ教会は、一度内部を徹底的に洗浄し、罪に見合う処罰を受けるべきだ!」
事の重大さに、兵たちは息をのんだ。場合によっては「王家に弓引く謀反人」として処刑されるリスクがある。謀反人の汚名を防ぐため、全員が覆面を着用した。主将であるディックは淡い朱色で染めた覆面を被り、その額へ自らの血で真っ赤な紋を描いた。首領が誰であるか、誰の目にも分かる印であった。後に「鮮血の覆面」と呼ばれる姿で、ディックは王都伯爵邸ではなく、王都より南側にある王都郊外の伯爵邸より出陣し、陣頭に立った。
ディックの掲げた大義名分は、街の平民や奴隷たちの心に爆発的な火をつけた。
「そうだ! 教会の奴らを許すな!」
「俺たちの娘の、妻の屈辱を晴らせ!」
覆面兵団は教会の腐敗を訴えながら、伯爵領から王都郊外へ三日かけて進んだ。その道中、各村や街から被害者の家族、教会に財産を奪われた平民、奴隷たちが次々と加わった。
長年、教会の搾取と暴虐に虐げられてきた平民や奴隷たちがディックの覆面集団に大量の食料を差し出し、手製の覆面を被って次々と隊列へ加わっていく。もっとも、まともな武具と訓練を持つ者は最初の百人ほどに過ぎず、残りは竹槍、鉈、農具を手にした民衆だった。
瞬く間に覆面兵団の規模は千人を超えた。 赤い覆面を被ってなお、全身から滲み出るディックの圧巻の風格と凄まじい気迫が、民衆を惹きつけて止まなかったのだ。
この前代未聞の事態を知ったクリスは、冷汗を流した。
「馬鹿め! 聖導騎士団や左翼軍との衝突は免れんぞ!」
しかし、こんなところでディックに死なれては困るのだ。 ディックは復讐の対象であるメラニアの実弟。名もなき騎士の刃や流れ矢で呆気なく死なれては、クリスの復讐計画が台無しになってしまう。死ぬなら国家反逆罪を背負うか、家ごと潰れるか、俺の計略で派手に自滅してもらわねば困る!クリスはすぐさまロランへ極秘命令を下した。
「覆面をかぶってディックを陰から守れ、死なすな。ただし、相手が王国正規軍となった場合は即座に手を引け」
人数が増えたことで食糧事情が切迫したディックは、短期決戦を決意。 王都郊外にある「メラニアが最初に訪れた教会」へと進軍した。固く閉ざされた大門へ弾劾文書を投げつけると、裏手から十人ほどの「聖導騎士団」が現れた。しかし、千人を超える覆面兵団の圧倒的な威容を目にするや、騎士たちは青ざめて逃げ去っていった。
ドギーに弾劾文を大声で読み上げさせた後、ディックは命じた。
「神を焼くのではない! 神の名を騙る腐敗の巣を焼くのだ! 聖典と礼拝具はすべて運び出せ。中に人が残っていないことを確認してから火を放て!」
熱心な信者であるディックの心は痛んだ。しかし、ここまでやらねば教会は目を覚まさない。 近郊の教会を三箇所連続で焼き払った頃、ついに王都の巨大な城壁が開き、本隊である大軍勢が姿を現した。
その数、およそ五百の聖導騎士団。両軍は王都東門の外に広がる噴水広場で対峙した。
「聖導騎士団の諸君!」
ディックが前に進み出て叫ぶ。
「君たちは婦女暴行の共犯者か!? それとも不道徳な司祭らの保護者か!? 暴行とは無関係の神の騎士ならば、直ちに手を引かれたい!」
騎士団の指揮官が剣先をディックへ突きつけた。
「戯言を! 捏造の悪口雑言で教会を穢す不届き者どもめ! 即刻矛を収めよ! これ以上進むなら、明日の太陽を拝めると思うな!」
「捏造ではない! こちらには被害を受けた女性たちがいるのだ!」
交渉は決裂し、双方の罵声とともに凄惨な大激突が始まった。
乱戦の中、覆面兵団の中に群を抜いて精強な男が一人いた。 ディックへ襲いかかる騎士たちを次々と叩き斬り、自身は掠り傷一つ負わない。味方を守り、敵を薙ぎ払うその背中。帝国遠征で何度も見た、あの無駄のない剣筋にディックは見覚えがあった。あいつは・・・、いや、追及すれば破滅を招く。ディックは自らを戒め、眼前の敵に集中した。正体は、クリスから遣わされたロランであった。
激闘の末、優位に立ったのは意外にも「烏合の衆」であるはずの覆面兵団であった。 噴水広場から始まった戦闘は、瞬く間に周囲の下町一帯へと広がった。下町の複雑な路地や水路を熟知した平民や奴隷たちが、屋根の上から石や瓦、熱湯、厨房の廃油が降り注いだ。水路へ誘い込まれた騎士の足元には、油を染み込ませた藁束が投げ込まれ、次々と火が放たれ、一人、また一人と数を減らしていった。
重装備の騎士たちは狭い路地で隊列を組めず、炎と煙によって各所で分断された。戦死者だけでなく、火傷や落石で動けなくなる者、恐怖に駆られて城門へ逃げ戻る者も続出した。戦闘を続けられる騎士は、ついに百人ほどまで減っていた。
その彼らが決死の覚悟で目指したのは「赤い覆面」を被った首領・ディックの首級であった。
「首領を討ち取れぇぇッ!」
百名の騎士が一斉にディックへ牙を剥く。 ロランが立ちふさがって防戦するが、あまりの数に押し込まれ、ディック自身も激しい防戦一方へと追い詰められた。クリスは王都外壁の監視塔から戦場を観察しており、そしてあらかじめ幾つかの命令を配下の工作員に指示していた。
「どさくさに紛れてディックの覆面を剥ぎ取れ。その直後、周囲の者に正体を叫ばせろ」
工作員が乱戦の隙を突いてディックの脇へ倒れ込み、すれ違いざまに手を伸ばして赤い覆面を強引に引き剥がした!
「なっ!?」
素顔が夏の陽光の下に晒された。すかさずドギーが新しい覆面を投げつけ、ディックは被り直したが、すでに遅かった。そしてクリスはあらかじめ言い含めていた複数の工作員に合図を送って叫ばせた。
「あの男、ブライトン家のディックだぞ!」
「ディック大尉だ! 奴が首領だ!」
聖導騎士団の幹部たちの間に、首領の正体が「ディック・ブライトン」であるという衝撃の事実が決定的に広まってしまったのである。その光景を遠くから見つめていたクリスは、冷酷に口角を吊り上げるのだった。
「坊っちゃん、大変なことになりましたな」
「仕方ないだろう。王国は内側からは変えられん。となると・・・」




