1-5 土煙
ディックが名を変え、アルカディア王国北部国境警備隊に配属されてから、間もなく一年。ディックは二十二歳になっていた。 国境の長い冬が終わろうとしていた。山々にはまだ残雪が見えたが、平地では雪解けから一か月が過ぎ、乾いた春風にさらされた街道の土は白く乾いていた。
その日、ドギーが緊迫した面持ちで部屋へ飛び込んできた。
「坊っちゃん、急報ですぞな! 隣国ガルディニア帝国軍、およそ千人の部隊が国境線を越えて侵攻を開始しましたぞ!」
「何だと? なぜこのような時期に?」
「恐らく北方の寒冷地ゆえ、冬の間に蓄えた食料を使い果たし、次の収穫まで持たないのでしょうなぁ。数年に一度見られる早春の風物詩、というやつですな」
ドギーはやれやれ、といった感じだが実際は深刻だ。国境街道が開いた直後を狙った敵の迅速な動きに、警備隊司令部は大きな動揺に包まれた。しかし、全軍をもって迎撃する方針だけは即座に決定されたのだった。
出撃の準備を整えながら、ドギーが前線の配置について語る。
「今回の迎撃、司令部は二人の大尉殿にそれぞれ右翼軍と左翼軍の実戦指揮を命じたようですな。そして国境警備隊司令官がこの戦いの総司令官として最後尾に布陣しますな」
「それぞれの役割はどうなっている?」
「右翼軍の役目は、隙を見て敵軍を撃破・殲滅すること。左翼軍の役目は、地形を利用して敵の進軍速度を抑え込み、右翼の動きに合わせて敵を削りながら村々を守り抜くこと、となっておりますな」
「各軍の任務に応じた兵装も整えられているわけだな。よし、我らもすぐに出撃するぞ」
ディックは短く応じると、兜の紐を固く締め直し、前庭へと向かった。
上等兵となっていたディックは総司令部の護衛という極めて重要な役割を任されることとなった。馬上で手綱を握り直すディックのもとへ、ドギーが自身の馬を寄せてくる。
「ハァ、まさか総司令部護衛を任されるとは。実に買いかぶられたものですなぁ、坊っちゃん」
「坊っちゃんはやめろ、何度言ったら分かる?それにな、総司令部護衛なら俺が手柄を立てる機会も減る、という計算もあるんだろう」
「そうですかな、坊っちゃん。さあ、いつものお決まりの儀式が始まりますぞ」
ディックは何度言っても改まらない従者に無言であきれ顔を向けたが、そのまま視線を前庭へと向けた。
前庭では雑然としながらも、いつものように簡易的な出陣式が執り行われていた。
「ドギー、また出陣式だ。もう見飽きたな」
「まあそう言われますな。これもお役目です」
「そうだけど。あの神父の眼の前に置かれた寄付金の袋、重たそうだな。いつから神は金を無心するようになったのか」
国境警備隊司令部は、聖導騎士団にも軍命令として村落防衛への参加を命じた。帝国軍の侵略から村を守ることは、王国が聖導教会へ支援金を出す条件の一つだった。
帝国軍は王国国境警備隊の防衛線を避けて山中から普段はあまり使われていない街道を使って王国領に侵入した。そもそも利用者が少ない街道のためあまり整備されておらず、行軍速度は極めて遅かった。恐らく輜重隊通過のための簡単な街道整備も兼ねているのであろう。
諜報員の報告から帝国軍の速度と進路を割り出した国境警備隊は、近隣の村々へ防壁を固めるよう早馬を走らせると同時に、敵と村落の間へ先回りして布陣した。
そしてお互いは徐々に距離を詰め、前線では生唾を飲み込むような緊迫感に包まれていた。それが連鎖したのだろう、司令部を含む後方も静まり返り、命令を待っていた。
「ドギー、始まるぞ」
「いよいよですな」
ついに激戦の火蓋が切られた。
「全軍、突撃!」
序盤の作戦は見事にはまった。地形を巧みに利用して伏せていた左翼軍が、統制された一斉射撃を開始したのだ。
突如として頭上から激しい矢の嵐を浴びせられ、帝国軍の先頭部隊は完全に浮き足立った。
その混乱を見逃さず、右翼軍の指揮官が刀身を高く掲げて叫んだ。
「今だ! 突撃ーッ!」
「遅れるな、一気に敵の先頭を崩すぞ!」
先頭集団の叫びとともに、右翼軍の騎馬隊が一斉に大地を蹴り立て、動揺する帝国軍のただ中へと突撃した。
その楔の先頭に立っていたのは、あの黒人兵であった。凄まじい威容で敵の列を突く彼の後を追い、右翼軍は鮮やかに敵の陣形を真っ二つに分断していく。
その様子を高台から見ていたドギーが感嘆の声を張り上げた。
「やはり見事な黒人兵殿ですなぁ! 敵陣を切り裂く勢いが凄いですな」
「ああ、だが敵もまだ崩れてはいないな」
帝国軍は損害を出しつつも、数に任せて押し返し始めており、戦場は混戦模様を呈していた。
その乱戦の最中、ディックは馬上で鋭い眼光を北方国境の山沿いへ向けた。
「あの山伝いの街道筋、不自然なほど巨大な土煙が上がっている。敵の増援か?」
ディックは直属の准尉に土煙を報告し、許可を得て一旦総司令部護衛隊の輪から抜け、総司令部へと馬を走らせた。
「報告します!北方街道からの土煙が見えます。帝国軍の増援の可能性があります」
「大丈夫だ、既に諜報員を走らせている。持ち場へ戻れ」
その後、駆け戻ってきた斥候の報告は驚くべきものであった。土煙の正体は、想定を遥かに超える速度で急進してきた帝国軍の輜重部隊、すなわち膨大な食料と武器を運ぶ補給部隊だったのだ。
「総司令官、どうされますか?敵輜重部隊の対処ですが」
「予備兵力はあまりないぞ」
「では目の前の戦いに専念させます」
「だがな、何もせんのも癪に障る。何か良い手立ては無いか?」
「それなら策がございます」
副官が進言した対処法は悪意に満ちているものだった。
「平民兵なら失敗しても切り捨てれば問題ありません。成功すれば総司令官のお手柄です」
「それで良い。適当な平民兵を呼んでこい!」
副官は配下の中尉に命令して平民兵を呼んでこさせた。平民兵と言ってもある程度の指揮力があり、他の平民兵がきちんとその指揮に従うような兵士でなければならない。
ディックが再び司令部へ来た。ただし今回は呼ばれてのことだった。
「ディック・シャドウ上等兵。総司令部の全予備兵力を用いて敵輜重部隊を攻略せよ」
「は!」
「但し、予備兵力は極めて重要かつ、それほど多くの兵はいない。だが予備兵は強者揃いの一騎当千である。全予備兵力五十を用いることを許す」
総司令官の副官が耳打ちした。
「総司令官、それでは総司令部の予備兵力が無くなります」
「左翼軍から引っ張ってこい!」
「は!」
再び総司令官はディックに向いて言った。
「総司令部予備兵は全員騎馬兵だ。ちょうどよかろう」
「はい。しかし、五十ですか?」
「不満か?しかし敵軍は我が方の五倍だ。敵輜重部隊の攻略にそれほど多くは割けない。予備兵力に限りがある以上致し方あるまい。その代わりに作戦が成功すれば昇格もあり得よう」
「ハッ、直ちに取りかかります!」
ディックは力強く敬礼し、すぐさま行動を起こしつつ、作戦を考えた。そうだ、輜重部隊を攻略すればいい、何も帝国兵を皆殺しにする必要はないんだ。
ディックは何とか策を即席で考えつつ騎乗に優れた総司令部の予備兵力五十人を率いた。
「全員、戦場を迂回しつつ北へ移動。帝国軍輜重部隊を目指す。太い綱は持ったな。進みながら柴をたくさん集めろ!柴の束を縄でつなぎ、鞍の後ろへ結べ!横一列に広がり、蛇行しながら土煙を巻き上げるぞ!」
五十騎の馬が一斉に駆け出すと、引きずられた柴が大地を削り、乾いた土煙を爆発的な勢いで巻き上げた。また、風向きも幸いなことにディックたちの追い風となっていたことも幸いした。
「我が部隊が少数しかいないことは帝国軍に見せたくない。あの丘を越えたらバレるからな、あの丘の手前で左右に広がって円運動だ。土煙だけをあげろ。ドギー、二騎を選んで帝国軍を見張らせろ!」
遠くの丘から見つめていた帝国の輜重部隊と護衛兵たちは、その土煙に顔を蒼白にさせた。
「お、王国の伏兵だ! 凄まじい数だぞーっ!」
「大軍による奇襲だ! 逃げろーっ!」
帝国軍輜重隊は王国領内へ侵入後、本隊へ一刻も早く追いつくため、隊列を長く伸ばして強行軍を続けていた。敵国領内では安全確保がなされた場所にのみ輜重部隊は進軍できる。逆に言えば安全確保が出来ない場所には入らないことが重要だが、そうも言っていられない場合もある。
そこへ巨大な土煙が迫った。護衛兵たちは大軍による奇襲と誤認した。荷馬車を守ったまま戦える相手の規模ではなく、更に分散したまま戦えば全滅すると恐れ、荷馬車と糧食を放棄して後方へ逃げ出した。
一方、前線で戦っていた帝国軍本隊にも側面後方に立ち上がるその巨大な土煙が見えていた。
「な、なんだあの土煙は! 輜重隊が襲撃されるぞ!」
「防がねばならん! 引き返せ、後退だ!」
前線では後方の土煙の規模も、襲撃部隊の数も分からなかった。「後方を大軍に遮断された」という誤報が部隊間を駆け巡り、後退命令と戦線維持命令が錯綜した。指揮系統が混乱するなか、体勢を立て直すための一時後退を告げる銅鑼が鳴り響いた。
混戦模様だった帝国軍は一斉に後退を開始したが、追撃を受けながらの撤退戦ほど難しい戦いはない。浮き足立った多くの帝国兵が、王国の地に次々と崩れ落ちていった。
「坊っちゃん! 前線の敵が銅鑼を鳴らして後退を始めましたぞ! 敵の補給隊の土煙も弱まりましたなぁ」
馬上で並走するドギーの報告に、ディックは鋭く頷いた。
「よし、一気に速度を上げるぞ! 敵の荷馬車を燃やす! それとな、」
「はいはい、坊っちゃんはやめろ、ですな!」
「分かっているなら直せ!」
ディックたちは放置された膨大な荷馬車群へとたどり着いた。積み上げられた大量の食料を前に、ディックは一瞬だけ足を止め、胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
侵攻さえしてこなければ、この食料で帝国の飢えた国民が多く救われたはずなのだ。それが今、自分の手によって一度も口にされることなく焼かれようとしている。
ディックの表情の陰りを察し、ドギーが静かに声をかけた。
「心が痛みますかな」
「ああ。だが、侵略の代償を思い知らせなければ、この愚行は繰り返される。心を鬼にする」
ディックは白銀の剣を掲げ、隊員たちへ向けて力強く命じた。
「火を放て! 敵の糧食をことごとく焼き払え!」
「火矢、放てーっ!」
放たれた火矢が次々と荷馬車へ突き刺さり、敵の糧食は無常にも激しい炎と煙の中へ包まれていく。そして猛烈な勢いで撤退してくる帝国軍を避けるため立ち上る煙を背に、ディックたちは馬の鞍に結びつけていた柴の綱を切り、迅速に戦場を脱出した。
輜重部隊の進行速度が速すぎたことが裏目に出た帝国軍にとって、この糧食の喪失は致命傷であった。前線へと届くはずだった命綱を、一瞬にして失ったのだ。
「見事に敵の糧食を焼き尽くしましたな。深追いは避け、一旦距離を取るといたしますか」
「ドギー、二騎を本陣へ走らせろ。輜重隊壊滅の報告とともに、敵が次に周辺の村々を襲う可能性が高いと伝えろ。今夜のうちに防備を増強するよう進言するんだ。他は近くの森に隠れて夜を待つ。たかが五十騎程度では瞬殺されるからな。そのあと闇夜に紛れて司令部護衛に戻るぞ」
その頃、糧食を失った帝国軍陣地では、司令官が激怒と焦燥に震えていた。
残された選択肢は二つ。飢えを凌ぐために近隣の村々を襲撃し力ずくで略奪するか、このまま這う這うの体で自国へ撤退するか。
「何の成果もなく退却してみろ! 皇帝陛下からどのような処罰を下されるか分かったものではないぞ!」
処罰を恐れた帝国司令官は「村々の略奪」を選択し、翌朝から周囲の村々へ向けて狂ったように兵を散らせたのだった。
しかし、その惨めな悪あがきすらも、王国軍の予測の範囲内だった。
ディックの伝令が到着した頃、左右両軍の司令部も同じ危険を察していた。若い上等兵から届いた進言は、各村へ増援を送る決断を後押しした。
翌早朝、司令部護衛に復帰したディックたちはすぐさま近隣の村落へ移動し、村の防壁を固めた。そしてその防壁の上でドギーが遠くから押し寄せる敵兵を見下ろして鼻で笑った。
「ハァ、恐ろしいほどの読み通りですなぁ。まんまと略奪のためにやってきましたぞ」
「各村への配置は完璧だ。防壁を活かして効率よく敵を削るぞ!」
村々に先回りしていた国境警備隊と聖導騎士団は、防壁と地形を利用し、敵の襲撃をことごとく撃退した。
村落の襲撃すら失敗に終わり、完全に食料が底を突いた帝国軍の士気は一瞬で崩壊した。
「もう限界だ! 撤退、撤退ーっ!」
惨めな悲鳴とともに、帝国軍は這う這うの体で総撤退へと追い込まれていくのだった。
戦後報告書には、敵輜重隊を五十騎で敗走させ、略奪先まで予測したシャドウ上等兵の功績が詳細に記された。数週間後、中央軍司令部から一通の任命書が届いた。
「ディック・シャドウ上等兵を、本日付で准尉へ任命する」
右翼・左翼双方の軍指揮官が同じ戦功報告書へ署名していたため、国境警備隊司令部も功績を握り潰せなかった。また、これまでの盗賊討伐と狐狼熊討伐戦での動きも付属資料として添付されており、平民出身兵としては異例の活躍が評価された。そして王国軍公式記録では平民出身兵の准尉昇格は八十三年ぶりのことであったが、それは当人たちには知らされておらず、歴史の記録として残るだけであった。
准尉の階級章を手に取り、ドギーがどこか感心したように息を吐いた。
「ハァ、一気に准尉まで跳ね上がりましたな。平民出身でここまで登り詰めるなど、それこそおとぎ話の世界の出来事ですな」
「中央から直接指示が下りた以上、警備隊の司令部も突っぱねるわけにはいかなかったのだろう」
「ええ。警備隊の司令官も昇格を餌にしていましたしね。おかげで平民出身の兵たちの間じゃ、坊っちゃんへの尊敬が凄まじいことになっておりますな。ですがねぇ・・・・・・」
ドギーは声を潜め、廊下の奥でこちらを苦々しい顔で睨みつける貴族出身の将校たちを顎で指した。
「貴族出身のお偉方からはこれまで以上に煙たがられ、忌み嫌われるでしょうな 」
「私利私欲で動く者たちに好かれようなど、最初から思っていない」
ディックは静かに答えると、胸元に新しい階級章を固く留めた。
「こんな腐った軍でも、平民兵はみんな、自分の力でのし上がった坊っちゃんを応援していますぞ」
「・・・・・・だから、坊っちゃんはやめろ」
新しい階級章が、春の日差しを受けて白銀に光った。




