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ヒュービック大陸興亡記  作者: 田中好雄
第1章 初指揮
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1-4 害獣

ディックが「ディック・シャドウ」として国境警備隊へ配属されてから、数か月が過ぎた。北部国境には王都より一足早く、秋が訪れていた。 北方の国境警備の地では既に紅葉が始まっており、すぐ近くに見える霊峰の頂はうっすらと白い化粧がほどこされていた。

正義感は強いが、どこか人の悪意に鈍いディックも、ようやく身の回りで起きていることの意味に気づき始めていた。

とある日、ドギーが言ってきた。


「ハァ、まったく。坊っちゃんはどこまでも冷静ですな。坊っちゃんには嫌味なほどの正義感と、妙な存在感がありますからな。身分を隠したところで、どうしても貴族らしさが滲み出るんですなぁ」


私利私欲で動く上官たちにとって、正論を曲げないディックは煙たい存在だった。しかも平民兵のはずなのに、時折見せる立ち居振る舞いには隠しきれない気品がある。それもまた、彼らの癇に障った。


「周りを見てご覧なさいな。若手兵士の中には、少しでも楽な任務をもらおうと上官に取り入る奴ばかりですな」


ディックもまた容赦なく上官らの毒牙に狙われることとなった。

ある日の夕方、上官の執務室に呼び出されたディックは、相手の品性のない視線を正面から受け止めていた。


「シャドウ一等兵。夕食後、私の寝室へ来い」


ディックは眉一つ動かさず、冷徹な声を返した。


「それは軍令ですか?」

「なに?」

「軍令であるならば従いますが、後日、その命令が軍規に照らし合わせて正しいものであったかどうか、本国の憲兵部門に確認を入れさせていただきます」

「け、憲兵だと!?」


顔を凄まじく強張らせた上官は、それ以上何も言えなくなった。当然、それ以降ディックはますます上官たちから目の敵にされ、陰湿に嫌われることとなった。

あらためてディックはこの地で何が起きているのかを理解し、周りの様子をそっと垣間見た。隣の寝台では、同僚が顔を伏せたまま身支度をしていた。誰とも目を合わせようとしない。昨夜、上官に呼び出された兵士だった。


「おい、大丈夫か?何があった?」


ディックが聞いても答えは無く、兵士はそっと退室していった。自分だけが拒めても、それでは何も解決していない。だが、今のディックには上官を裁く権限も、被害を訴える兵士を守る力もない。その無力さを噛み締めながらも、彼は日々の任務で自らの正しさを示し続けていた。


「ハァ、上官どもに睨まれて、嫌がらせとしごきは増える一方ですな。ですがね、同僚や後輩兵士たちの反応はまるで逆ですぞ」


ドギーは嬉しそうに目を細めて続けた。

それに対してディックが何かを言おうとすると部屋の扉が叩かれた。


「シャドウ一等兵殿! 明日の演習、自分たちも参加させていただけないでしょうか!」

「ああ、もちろんだ」


ディックが毅然と応じると、後輩兵士は嬉しそうに敬礼して走り去っていった。その背中を見送りながら、ドギーがポツリと呟く。


「不器用で暑苦しいほどの正義感も悪くないもんですなぁ。私はもう慣れっこですけどな」

「おいドギー、明日も激務だ、早く休め!」

「分かってますよ、白銀の坊っちゃん!」

「何だそれは?」

「みんな坊っちゃんのこと、好きなんです!」

「馬鹿を言ってないで早く寝ろ!」


そんな秋の一場面も過ぎていった。

いつもなら霊峰マウント・ヒュービックの山頂が真っ白となり、その下が紅葉で赤茶け、そしてその下に濃い緑がつづく三段紅葉が見事な時期であったが今年はその三段紅葉が随分と遅くなっていたのだ。

その年は誰もが予想しなかった暖冬であった。

隊舎の窓の外を見つめながら、ドギーがどこか呆れたように呟いた。


「ハァ、今年はどうにもおかしな陽気ですなぁ。暖冬なのは結構ですが、おかげで近隣の村々が酷い目に遭っておるそうですな」

「村々が? 寒さが和らぐのは良いことではないのか」


ディックが不思議そうに尋ねると、ドギーは首を横に振った。


「寒さではなく、飢えた獣の恐怖ですよ、坊っちゃん」

「坊っちゃんはやめろ、何度言ったら分かる?」

「はいはい、分かってますよ坊っちゃん。本来なら深く眠っているはずの獣どもが、冬眠し損ねて各地で農家の貯蔵庫を片っ端から食い荒らしているんですなぁ」


ディックは何度言っても改まらない従者に無言であきれ顔を向けたが、事態の深刻さにすぐさま表情を引き締めた。


「もしかして狐狼熊か?」


狐狼熊は人ほどの体格を持つ熊の一種で、活動期には群れを作る。足が速く木にも登り、飢えれば人さえ襲う危険な獣だった。一方、その肉は食用に適しており、仕留めれば多くの食肉が得られる。


「穀物貯蔵庫を食い荒らされたとなれば、村人にとっては死活問題だ。食料庫だけで済んでいるうちに被害を止めねば人的被害が出てしまうぞ。それで、村人たちは治安維持を担う聖導教会へ助けを求めたのか?」

「ええ、もちろん最初に向かったそうですな。ですがね、教会の神父どもがぬけぬけと言い放ったそうですな。動物保護は神の教えである。肉食のための狩りすら神の罰が当たるというのに、食料目的でもない殺害など断固としてお許しになられない、と」

「害獣駆除すら拒絶したというのか。村人の命がかかっているというのに」

「ですがね、村人が勝手に狐狼熊を殺す分には関知しない、なんて都合の良い立場をとっておるんですな。結局、にっちもさっちも行かなくなった村人たちが、涙ながらに我が国境警備隊へ害獣駆除を求めて駆け込んできたというわけですな」


だが村人たちの悲痛な訴えが届いた国境警備隊司令官の反応は、相変わらず冷淡なものだったという。


「獣退治など軍の仕事か?」


豪華な椅子に身を深々と預けた司令官はまったく関心を示さず、処理をそのまま副官へ丸投げしたのだった。丸投げされた副官の判断は極端であった。彼は国境警備隊の一千人の兵力のうち、なんと百人をこの害獣討伐に割り当てる大規模な計画を立てたのだ。


「百人も割くとは大掛かりだな。あとは現場指揮官となる中尉殿が責任を果たすだろう」


そして選ばれた百人の中にディックとドギーも含まれていたのだ。ディックは過酷な雪山への出陣に備えて自身の装備の点検を始めるのだった。

警備隊の前庭では、いつものように簡易的な出陣式が執り行われ、教会からの祝福を受けた。そして中尉の指揮の元現地に向かい、大規模な害獣狩りが開始される。


現地に到着すると、百人は五人一組の捜索討伐班十五組と、それらを五班ずつ統括する准尉三人、予備兵力五人、輜重隊員十人、解体要員四人、治療要員三人に分けられた。 各班の班長は班員同士で選び、各准尉は状況に応じた班の再編や役割変更を認めた。ディックも班長に選ばれ、ドギーを含む四人の兵を預かることとなった。

寒風が吹き荒れる広大な雪山を見上げ、ディックは短く言った。


「油断するなよ。これより広大な雪山に入る。全員、足元に気をつけろ」

「了解いたしました、シャドウ一等兵殿!」


即席の集団の兵士たちが毅然と応じ、いよいよ過酷な害獣討伐作戦の火蓋が切られたのだった。

二週間に及ぶ過酷な雪山での連戦の中、ディックの真価は思いもよらぬ形で発揮されることとなった。

凍てつく山中で狐狼熊の群れを発見するたび、ディックは冷静に地形を見極め、周囲の兵に迅速な手配を出した。


「右の崖際へ追い込め! 逃げ道を塞げば仕留められる!」

「ハッ、了解いたしました!」


自ら獣を斬り伏せることこそ多くはなかったが、的確な追い込みの指示、傷を負った者への即座の応急処置と後方移送、さらには前線で人が減った班の迅速な再編まで、すべてを必死でこなした。


「シャドウ班長! こちらの班は負傷者が二人出ました。班行動ができません!」

「焦るな。負傷者が自力で歩けるなら村へ返せ。歩けないなら一人を付き添わせろ。残存兵力をこちらに組み込む。再編を終え次第、すぐさま挟み撃ちに移行するぞ」


土地勘を持つ地元の村人たちも、ディックの誠実で謙虚な姿勢に深く感銘を受け、進んで移動方法の確保や情報提供に協力した。

討伐が開始され、最初の試練が訪れたのは討伐三日目だった。まず朝から天候が崩れ、すぐに猛吹雪となった。途中までは討伐に向けて野営を出ていたがこれでは部隊全体が遭難してしまう。相談の上、村まで撤退するための撤退笛を鳴らすことを准尉に提案した。

そしてその笛が狐狼熊を引き寄せてしまった。狐狼熊は非常に好奇心が旺盛で音に対して敏感に反応する習性があったが、ディックたちはその事を知らなかった。

またたく間に囲まれるディックと仲間の班の十人。ディック班と一緒に野営をしていた班に漆黒肌の黒人兵がいた。そしてその黒人兵が剣を構え、狐狼熊の前に立ちはだかった。その黒人兵に煽られたか、次々に黒人兵へと襲いかかる狐狼熊。そして瞬時の武芸で斬り倒していく黒人兵。一瞬の瞬きの間に二頭が斃れ、雪が狐狼熊の血で染まった。

班の背後からも次々に襲いかかる狐狼熊。一人が負傷するも一頭を斃した。しかしまだ十頭以上の狐狼熊に囲まれている。


「負傷者、出血が多いです!運ばなければ!」


ディックが叫んだ!


「黒人兵、一瞬でいい。負傷兵を雪車で運び出すときに援護してくれ!」

「承知」


黒人兵は圧倒的な武芸で狐狼熊を避け、斬り、雪車を援護した。ディックの掛け声で雪車を押し引きし、村へ向けて負傷兵含めて三人が駆け下りていった。追いかけようとした狐狼熊の一頭を黒人兵が斬り殺し二頭を弓で負傷させた。負傷した狐狼熊は矢が刺さったまま逃げていった。だがまだ八頭以上に囲まれた状態だった。


「全員、背後の岩壁までゆっくり下がれ!包囲されたままでは四方から襲われる。中央で迎え撃て! 左右を守れ。ドギーと二人は盾を構えろ、あとの二人は槍を揃えて盾の間から狐狼熊を突け!俺も前へ出る。黒人兵、攻撃は頼んだぞ!」


その後、ディック、ドギー、黒人兵、そして身体に異常がない四人の二等兵が残り、襲いかかる狐狼熊を盾で防ぎながら確実に斃していった。その際、ディックは常に左右前方、そして上方をも監視の目を行き届かせ、「右から来るぞ、次は左だ。木に登った奴が上から来るぞ!」と言葉を発し、ディックの指示が飛ぶたび、兵士たちは迷うことなく動いた。

そしてディックは荷物から薪を取り出し、火をつけると右側へ次々と投げ込んだ。 火を怖がる狐狼熊は左に寄り始め、一気に戦いやすくなった時点で総攻撃をかけ、最後の狐狼熊は逆に崖まで追い詰め、弓矢で仕留めたのだった。

その後、討伐は見事に成功を収め、狩り取った狐狼熊はすべて丁寧に血抜きを施した上で、村人たちへと分け与えられた。幸い今回はまだ人的被害が出ていなかった。人を食った狐狼熊の肉を食す王国人はいない。よってその場合の狐狼熊の肉は廃棄するしかないがこれなら村人にも分け与えられる。また、冬季の寒さによって害獣の肉が腐敗せずに半冷凍のような状態になったのも幸いした。冬の食料を奪われた村々にとって、これ以上の救いはなかった。

二週間の討伐遠征が終わり、国境警備隊の拠点にて、現場で指揮を執っていた准尉たちが集まる報告会が開かれた。

信賞必罰は軍の鉄則である。しかし、そこで誰もが予想しなかった事態が起きる。


「今回の遠征における最大の功労者か。意見を聞かせてもらいたい」


議長を務める大尉が問いかけると、座に並ぶ中尉、ならびに准尉たちが口々に同じ名を挙げたのだ。


「シャドウ一等兵を推薦いたします」

「私もだ。派手な討伐数こそないものの、村人との連携、手傷を負った者の治療や移送、装備の補充、食料や水の手配、雪中での野営地の選定、そして何より大きかったのが迅速な部隊の再編と立ち直しだ」

「ええ。彼も完璧ではありませんでしたがそれでもその場における判断とすれば的確である指示を出していたからこそ、誰一人見捨てられることなく大勝利を収めることができたと思います」

「問題は負傷兵士への対応です。特に雪山ですから少しでも対応を間違えると死亡する危険が高まります。それを防いだだけでも大手柄と言えるでしょう。結局、死亡兵が出なかったのは彼の手柄といえます」


前線の指揮官たちは誰一人として異論を挟まず、ただの一等兵であるディックの手腕を絶賛したのだった。

報告会を終え、隊舎へと戻る廊下で、ドギーが誇らしげに鼻を鳴らした。


「ハァ、中尉殿があなたを戦功一番に推薦したそうですな。裏方仕事を完璧にこなす一等兵なんて、聞いたこともありませんな」

「私は当然のことをしたまでだ。命を預かる以上、取りこぼしは許されない」


ディックが静かに答えると、ドギーは嬉しそうに目を細めた。


「そういう手抜かりのないところが、下級兵たちの信頼を集めているんですな」


報告会の熱気が冷めやらぬ執務室の片隅で、ディックは窓の外を見つめながら、ある一人の男のことを考えていた。

今回の遠征において、最も多くの獣と対峙し、その圧倒的な武技で無数の獣を単身狩り取ったのは、部隊に所属する一人の黒人兵であった。

ディックの視線の先を追い、ドギーがどこか重々しい口調で呟く。


「あの黒人兵の戦いぶりは実に見事なものでしたな。ですが、いくら圧巻の武功を立てようとも、我が国の歪んだ慣習が立ち塞がるわけですがな」

「王国の悪しき因習か」

「ええ、それがこの国の現実というものですな。悲しいことに、あの百人の部隊の中で、彼の名前を知る者さえ誰一人としておりませんな」


遠く離れた広場で、誰とも交わることなく黙々と武器の手入れを続ける黒人兵の背中。ディックはその孤高な姿をじっと見つめた。


「彼の名前を知らないのは俺とドギーだけではないのか!」

「はい、誰もが知りません。しかも彼も語ろうとしません」

「そうなのか。だから俺が何度か彼に名前を聞いても答えてくれなかったのか」

「関わらないのが無難ですな。どれほど武芸に秀でていようと、上層部は最初から評価する気などないのですからな」


ディックはドギーの言葉に直接は返さず、心の中で静かに誓いを立てた。

制度がどうあろうと、あの圧巻の武功は紛れもない本物だ。いずれ機会を見つけ、必ず彼の名を聞き出そう、と。

准尉たちからの圧倒的な高評価を受け、さすがの国境警備隊司令官もこれを無視することはできなかった。司令官権限が発動され、ディックは「上等兵」へと昇格を果たすこととなった。

隊舎の執務室で、昇格の書面を手に取りながらドギーがどこか呆れたように鼻を鳴らした。


「ハァ、隊長権限で上等兵へ昇格ですな。めでたい限りですな」

「評価されたこと自体はありがたいがな」

「ですがね坊っちゃん。我が国の軍の階級は平民出身の場合、二等兵から始まり、一等兵、上等兵、准尉、そして最高位の少尉へと上がる仕組みになっておりますが・・・・・・」


ドギーは書面を机の上にポンと置くと、冷ややかな視線を向けた。


「平民である以上、上等兵まで昇格しても手当は変わらない。毎月の手当は二等兵の頃と一銭も変わらない、名ばかり昇格、というわけですな。手当が増えるのは准尉以上から。その准尉に平民が上がることなど、現実には夢のまた夢という扱いですな」

「命を賭した働きの対価すら渋るというわけか」

「ええ、責任は重くなるんですけどね」


ディックは特に言葉を返さず、ただ静かに冷徹な視線を遠くへと向けるのだった。


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