5-5 口車
クリスは、告発文の送り主に関する調査報告書を軍情報部副司令官へ提出した。内容は、「現時点では送り主不明。引き続き捜査を継続する」という虚偽のものだった。
問題の告発文を寄せたメラニアには弟がいる。王国中央軍に所属するディック・ブライトン大尉である。情報部所属のクリスは普段、実戦部隊の指揮官と直接交わることはない。先日の遠征のような特殊な環境であればともかく、幸か不幸か、これまでディックと対面する機会は一度もなかった。
しかし、盤面は整った。クリスは堂々と執務室へディックを呼び出すことにした。 シロタ経由で伝令を走らせ、「情報部のクリス少佐のもとへ至急出頭されたし」と伝える。
「ドギー、伝令が来た。私への出頭指示だ。何か心当たりはあるか?」
「いいえ、ありません坊っちゃん」
「坊っちゃんはやめろ・・・。ところでこのクリスティ・ギャロット情報部少佐というのは・・・」
「帝国の皇城を兵糧攻めにする案を出して成功に導いた本人ですな。その王国軍でも有名人が坊っちゃんに何用ですかな」
なぜかディックは、背筋に薄気味悪い寒気を覚えた。呼び出しを受けたディックは、副官のドギーを伴って情報部庁舎へ現れたが、部屋の前でドギーを待機させ、一人でドアをくぐった。 壁を挟んだ隣室では、シロタが静かに息を潜めて聞き耳を立てていた。
「ディック・ブライトン大尉、入ります」
「入れ。クリスティ・ギャロット情報部少佐だ」
互いに軍隊式の礼を交わし、クリスは来客用の椅子を示して着座を促した。 そして、冷ややかな静寂を破り、ゆっくりと切り出した。
「実は今、とある貴族のご令嬢をお預かりしている」
それだけでディックの背筋が跳ねた。だが、軍人らしく無言を貫く。
「そのご令嬢は、大変痛ましい事件の被害者だ」
「それは、おいたわしいことです」
「君を呼び出した理由は、もうお察しだろう。その令嬢とはメラニア・ブライトン嬢だ」
やはり、という思いよりも先に、被害者という言葉の不吉さがディックの胸を鋭く刺した。
「姉が少佐殿にご迷惑をお掛けしていること、身内として深く感謝とお詫びを申し上げます。すぐに屋敷から者を向かわせ、引き取らせます」
「そうだな。だが今、メラニア嬢の心は深く傷ついている。彼女の心の傷を癒やす時間が必要なのだ」
「傷? 姉は怪我を負っているのですか!?」
直球で食いついてくるディックを、クリスは嫌いではなかった。だが、この男も弟ジュリアンを死へ追いやったブライトン家の一員であり、クリスが復讐対象と定めた人間の一人だった。ディック自身がジュリアンの死に手を貸したわけではない。それでも、クリスにとってブライトン家の血を引く者は、誰一人として復讐の例外ではなかった。クリスは心の中で冷たく刃を研いだ。
「身体の傷もさることながら、何より心の傷が深いのだよ。今は家族と離れ、静かに傷を癒やしたいと本人が強く望んでいる」
「その事件とは一体何なのですか? 少佐殿はご存知なのですか!?」
「それを聞いて君はどうするつもりだ?」
「どうするかは、内容を聞いてみないことには何とも言えません。分かりました。では姉から直接問いただします」
「それもおやめになった方がいい。私から君へ話す許可は、すでにメラニア嬢本人から得ている。心して聞くがいい」
「承知しました。お約束します」
クリスは小さく吐息を漏らした。 これから放つ言葉の毒に、目の前の男がどう暴発するか。部屋の調度品が砕け散る程度で済めばいいがと、密かに思考を巡らせる。
「では話そう。君の姉君は、暴行の被害に遭われた」
「暴行? 殴られでもしたのですか!?」
どこまで鈍い男なんだ。内心で呆れながら、クリスはハッキリと告げた。
「いいや。いわゆる婦女暴行だ」
ガタッ!!ディックが弾かれたように立ち上がった。
少年の頃から恋い焦がれ、世界で最も尊い存在として崇めてきた姉。触れたいと願うたび、自らの不潔さを恥じてきた。その姉が、自分以外の男の欲望によって汚された。ディックの視界が瞬時に暗転し、凄まじい絶望と怒りが脳髄を焼き尽くした。
「ディック殿、お気を確かに! メラニア嬢は今、回復に向かいつつある。だが事が事だ。婚姻を結ぶ君と、今はどんな顔をして会えばいいのかと苦しんでおられる。長年大切に守ってきた純潔を奪われたのだ。その心中を推し量ってやるのが紳士というものではないか」
クリスは舌を巧みに回し、ディックの激昂を必死に宥める振りをしながら、その不純な情念を的確に煽り立てた。
重苦しい静寂が、部屋を支配した。 やがて、ディックの瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出し、彼は糸が切れたように椅子へ崩れ落ちた。
「少佐殿。犯人は、犯人は分かっているのですか?」
「知ってどうする。復讐でも仕掛ける気か?」
「もちろんです! 叩き潰して殺します! どのような罪に問われようと構わない!あの姉に地獄を見せた奴らを、生かしておけるものかっ! 少佐殿、犯人の名を教えてください!」
「君の怒りは至極当然だ。だが、やめておけ。相手が悪すぎる」
「相手が悪いですと? どういう意味ですか! 仮に犯人が国王陛下であろうと、私は容赦しません!」
その言葉に、クリスは一瞬だけ絶句した。
「今の発言は、聞かなかったことにしておこう」
もちろん、壁の向こうではシロタが一言残らず記録している。
「だが、そこまでの覚悟があるなら教えよう。犯人は聖導教会の司祭たちだ」
「なっ!? 教会の司祭たち!?」
思いも寄らぬ黒幕の名に、ディックの顔が驚愕に歪んだ。 だが、どれほど巨大な敵であっても、胸に燃え上がった復讐の炎が消えることはなかった。
「相手が巨大な教会組織となれば、さすがの君も手を出せまい?」
「いいえ、方法を考えます。少佐殿、暴行を働いた司祭の個人名は特定できているのですか?」
「特定はできていないが、どの地区の教会かは判明している。だが、言っておくが軽挙妄動は慎めよ? 君が暴走すれば、情報を流した私にまで跳ね返ってくるのだからな」
「少佐殿には絶対に迷惑をかけません! ブライトン家の名にかけて命に代えてもお守りします!」
「そうか。本当に信用していいのだな? 私を裏切ればどうなるか分かっているだろうな。そこまで言うなら教えるが、条件がある」
「何なりと!」
「もし教会へ行動を起こすなら、必ず事前に私へ相談すること。私も軍人だ、社会や軍への混乱は最小限に抑えねばならん。だが、君の復讐を邪魔するつもりはない。むしろ、影から助力してやりたいとすら思っている」
「少佐殿! 感謝いたします!」
メラニアの事件による衝撃で、ディックの鋭い直感と人間不信は完全に麻痺していた。クリスは、胸の内で冷ややかに笑った。
「まずは緻密な復讐計画を立てたまえ。完成したら私に見せるのだ。私は情報部の人間だからな、作戦や工作の観点から助言してやれる。いいか、相手はあの教会だ。暴行犯一人を刺して終わりとはいかん。君の前に立ちはだかるのは教会組織であり、強大な聖導騎士団だと思い知れ」
「はっ! 肝に銘じます!」
ディックは深く頭を下げ、部屋を後にした。そして十日後、ディックは再びクリスの執務室を訪れ、一冊の「復讐計画書」を提示した。
その内容は、ブライトン伯爵領の警備隊百人のうち、選りすぐりの八十人を率いて該当の教会へ突入するというものであった。 小規模な教会の聖導騎士団は五~十人、中規模で三十人、大規模で百人程度。八十人の手勢で大規模教会へ乗り込めば数でやや劣るが、実戦経験の豊富な警備隊なら圧倒できるという試算だ。
不祥事が発生した際、教会はまず国王の最高司祭としての権力と威光で相手をねじ伏せ、それが通用しないと見るや聖導騎士団という「武力」で叩き潰しにくる。ディックは最初からそれを織り込み済みで挑もうとしていた。
「貴殿はブライトン家の当主ではなかろう。その貴殿がブライトン家の警備隊を動員できるのかね?」
「それは問題ないでしょう。被害を受けたのは実の姉のメラニアです。兄上としても実の妹が暴行を受けたわけですからね。喜んで正義のために動くはずです」
これだから青いのだ、とクリスは内心で呆れた。兄が当然協力すると信じ込み、その意思すら確認していない。もっとも、新伯爵が難色を示したところで、動かしようはいくらでもある。
クリスはさらに「教会の背後にいる国王陛下の権力はどうするつもりだ?」と問うと、ディックは迷いなく答えた。
「我が亡き父は三十年近く近衛兵団に仕え、前国王陛下の御息女を妻に迎えました。私と姉は前国王陛下の外孫であり、現国王陛下から見れば甥と姪にあたります。姪である貴族令嬢が教会の司祭に襲われたという事実を知れば、陛下もお考えを改めてくださるはずです!」
血統の威光に頼るか。どこまでも青く、甘い男だ。どこまでも愚直なディックに呆れつつも、クリスは「計略と無縁な青二才」へ親身な顔をして毒を含んだ助言を与えた。
「君の熱意は買うが少し性急すぎるな。私ならこう考える」
そう言って、クリスは一つの修正案を提示した。
「まずは他の被害者を探すのだ。メラニア嬢以外の犠牲者を炙り出せば、単なる個人の犯罪ではなく教会の組織的犯罪として糾弾できる。個人犯なら教会はトカゲの尻尾切りで逃げて終わりだが、組織犯罪となれば言い逃れはできん」
「組織的犯罪・・・・」
「君は、もう少しメラニア嬢の苦しみに寄り添うべきだな」
図星を突かれ、真っ赤になって下を向くディック。クリスはさらに追撃した。
「だが君がそうして正面から教会と対立すれば、間違いなく軍にはいられなくなる。王国での将来も全て絶たれるだろう。教会のトップは国王陛下なのだからな。その覚悟はあるか?」
「社会の公正と正義を守るためです。法律的にも倫理的にも非難されるべきは教会であり、真実が明かされれば、私の行動も最後には理解されるはずです!」
「教会と王家が、正義に従って動くとは限らないぞ。法、社会、秩序、そして体面や過去との整合性。これらが正義と対立することはよくあることだしそういった時に必ず正義が勝つとは限らない。更にだ、当事者がふたりいた場合にはそれぞれに別の正義があることも理解すべきだ」
「いいえ、世の中に間違ったことがあればそれは正されるべきです!今回の件は明らかに間違っていると思います」
これだから正義と正論が大好きな馬鹿は困る。正義を振りかざす人間が、時としてどれほど容易く権力の悪意に踏みにじられるか。自尊心を傷つけられた権力者が、どれほど凄惨な手段で復讐してくるか。それを理解していない男の青臭さに、クリスは吐き気がした。
だが、ここでディックを焚き付けねば意味がない。クリスは声のトーン、話す速度、吐息の混ぜ方まで計算し尽くし、ディックの胸へ染み込むように囁いた。
「いいか、まずは匿名での弾劾文から始めるのだ。正々堂々と名乗る必要はない。その弾劾文に対して教会と王家がどう反応するか様子を見るのだ。真摯に向き合うなら名乗り出て戦えばいい。隠蔽や工作に走るなら、それ相応の搦め手で追い詰めればいいのだからな」
「匿名で、ですか」
「そうだ。それから、私は裏で独自の諜報員を動かし、メラニア嬢以外の被害者を捜索して君に共有しよう」
すでにタチバナから別の被害者について報告を受けている。さらに、シロタが送り込んだ女性諜報員も被害者であり、その女性諜報員によって儀式の詳細も掴んでいた。被害者を見つけるという約束は、決して空手形ではない。
巧みな話術と演出により、ディックの警戒心は完全に溶け崩れていた。
「承知いたしました。まずは弾劾文を送り、相手の出方を見ます」
「今後、私との接触を教会側に掴まれれば、情報部が背後にいると疑われる。君自身のためにも、直接会うのは今日で最後にした方がよい」
「少佐殿へのご迷惑を避けるためですね。承知しました」
「賢明な判断だ」
情報部の人間であるクリスとの接触を絶つことは、クリス自身の防衛策でもあったが、ディックはそれを「自分のための気遣い」と受け止め、深く感銘を受けて部屋を去っていった。
それから数日後、 ディックは同じ内容の「匿名弾劾文」を三通作成した。
一通は暴行現場となった「中央教会」。 一通はその中央教会を監督する「上部支部」。 そして最後の一通は「王国軍中央司令部」宛て。
悲劇と復讐の幕がついに切って落とされたのであった。
「ドギー、弾劾文を送ったぞ!」
「坊っちゃん、もう引き返せませんな」
「当たり前だ。正義は我にある!」
「・・・さすがは白銀の坊っちゃんです・・・」




