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ヒュービック大陸興亡記  作者: 田中好雄
第4章 帝国征伐戦
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4-3 特訓

クリスの元へ、五十名規模の諜報部隊を統率する男爵家出身の将校、ロナルド・バスク少尉が着任してきた。

バスク少尉は形式通りの挨拶を冷淡に終えると、すぐに執務室を辞していったが、その瞳の奥にはクリスをあからさまに見下す色が浮かんでいた。


クリスが最下級の準男爵家出身であると知っての態度であろう。

だが、軍組織において階級は絶対であり、実家が公爵であろうと準男爵であろうと序列が変わることはない。

彼が軍律に従い、命を過ちなく全うする限り、クリスはバスクの不敬な態度を咎めず放置するつもりであった。


後日、クリスはバスク少尉に命じ、配下五十名の諜報員たちの技量を改めた。だが、事前に聞いていた報告を考慮に入れてなお、その惨状はクリスの想像を遥かに絶するほどの能力、技量の低さであった。


これでは工作員はおろか、ただの諜報員としてすら使い物にならん。新人でもないのに、これまで何をしてきたのだ。クリスはすぐさまバスク少尉を呼び戻した。


「バスク少尉。配下四十九名の技量を確認したが一体何だあれは。諜報員としても工作員としても全く話にならんぞ」

「お言葉を返すようですが、クリス中尉。彼らはこの中央軍の諜報部隊としてはごく標準的な水準です」


バスクの返答に、クリスは激しい衝撃を受けた。バスクを含めた五十名が束になってかかろうと、技量的にはタチバナ一人の足元にも及ばない。しかし、タチバナという規格外の怪物を基準に測定している時点で、クリス自身のものさしも相当に偏っていたのではあるが。


王国軍において、諜報や工作を担う裏方の価値は極めて低く見積もられていた。

上手く裏方人材を使いこなす幹部が長年現れなかったため、評価の優先順位は常に実戦部隊が独占し、次いで後方支援の将校が並ぶ程度。


目に見えぬ裏方の働きは正当に評価されず、軍内部に敵国の密偵が潜んでいる可能性を考慮すれば、無能なまま据え置いておく方が好都合だという事無かれ主義すら横行していたのだ。同時に諜報や工作を専門とする人材の育成機関が存在しない組織で、まともな人材が育つはずもなかった。


「バスク少尉、事情は理解した。では、君を含めた五十名の部隊員に特訓を施し、技量を底上げしたいと思うがどうだ?」

「それはぜひ、お願いしたく存じます」


バスクはタチバナという毒牙の存在を知らない。バスクは眉に唾をつけながらも短く敬礼して退室していったのだった。


翌朝、指定された訓練場へバスク以下五十名の隊員が集結した。

そこにはすでにクリスと、見慣れぬ美しい女性、そしてクリスの副官、シロタが佇んでいた。


隊員たちが整列したその瞬間、美しい女性タチバナがしなやかな足取りでバスクの目の前へ歩み寄った。

直後、右手が風を切り、甲高い乾いた衝撃音が室内に響き渡る。パッチーン!バスクの頬が、激しい音を立てひっぱたかれた。


「バスク少尉。時間通りね」


叩かれたバスクは目を見開き、腰の軍刀へ手を伸ばしかけた。貴族出身の少尉たる自分が、どこの馬の骨とも知れぬ女に公衆の面前で叩かれたのだ。しかし、怒りに血走ったバスクの視線が、タチバナの妖艶な瞳と正面から衝突した瞬間、彼の全身の毛が恐怖で逆立った。


タチバナの微笑む瞳の奥には、これまで戦場で見てきたどんな凶暴な山賊や敵兵よりも遥かに冷酷で底知れない、本物の怪物の殺気が渦巻いているのを感じた。今ここでこの女に逆らえば、一瞬で喉笛を食い破られて殺される!理屈ではなく本能に近い部分でそのように感じたバスクは、冷や汗を流しながら震える声で応じるしかなかった。


「は! 申し訳ございません!」


タチバナとしても軍人ではないタチバナ自身が甘く見下されず、しっかりとした指導を行き渡らせるために出た賭けであったが、どうやらバスクが持つ本能に一瞬の恐怖を植え付けることはできたようだ。数日に渡って陰からバスクを観察し、この男の性格を分析したかいがあったというものだった。


クリスが冷ややかに口を開いた。


「諜報部隊員諸君。本日から、ここにいるタチバナが君たちの教官となる。約三ヶ月にわたり、厳しく指導する予定だ。脱落者には容赦しない。君たちは新人ではないのだ、相応の成果を期待する」


言い捨てると、クリスはタチバナに後を託し、踵を返して去っていった。

取り残された隊員たちへ、タチバナが艶やかに微笑みかける。


「私の指導についてこられた子には、素敵なご褒美をあげるわ。そして脱落した子には地獄のご褒美をあげるわ。ちなみに私はクリス中尉の私兵だから、軍の人事部に泣きついても無駄よ。まずは指定された時間よりも前に集まることから始めましょうか」


そこから始まったタチバナの特訓内容は、外部へ漏れることは決してなかった。

後年、王国軍を辞め、名前を変えたバスクが密かに王国全軍司令部記録処に匿名で送付した手記により、その壮絶な地獄の特訓の全貌が明かされることとなる。


タチバナは訓練場に鍵をかけ、窓と通気口には分厚い布を垂らし、完全に外から見えなくした上で、長年培った暗躍の術を叩き込んでいった。

女子隊員には、男を破滅させる妖艶極まる色仕掛けを仕込んだ。服装の選び方から始まり首、腰の角度、そして目線の使い方。男を虜にするのか駄目にさせるのか、強さを決めて使い分ける方法まで教え込んだ。

男子隊員には、変装、女装、女性の籠絡術、男色、さらには色仕掛けへの耐性。特に男子隊員はほとんど女性からの色仕掛けに弱かった。


「あなた達ね、女の裸を見て身体が反応するのは仕方ないのよ。しかしね、心まで反応しちゃ駄目だわ。とくにそこの坊主頭のあなた、女の裸体を見た時のその目、怖かったわよ。お母さんの裸ですら見たこと無いんでしょ?」


指摘された隊員は顔を真っ赤にして俯いてしまった。


工作員たちには各種薬品の精製、媚薬の調合、証拠捏造、要人誘拐の手順を徹底して叩き込んだ。さらに、大陸共通語の帝国訛りと共和国訛りの発音や方言の違いに至るまで、徹底的な語学指導が行われたのである。


屋敷への潜入、脅迫、声真似、窃盗、そして無実の罪を着せる冤罪工作。

実戦を交えたその拷問のような訓練は、隊員たちの精神を根本から塗り替えていったのだった。


三ヶ月後、最終試験が執り行われた。

タチバナ自らが仕掛けた色仕掛けの試験において、男子隊員はほぼ全滅した。ディックのごとき異常な高潔さを持たぬ男たちが、タチバナの魔性に耐えられるはずもなかったのだ。


だが、たった一人、完全に真顔のまま、股間をピクリとも反応させずに耐えきった男子隊員がいた。彼は真正の男色家であったのだ。

タチバナは不敵に笑うと「いいじゃない、最高よ」と称え、彼をすぐさま特別任務へと抜擢した。


女子隊員たちは市井へ放たれ、平民男性を色で落とす試験に全員が合格してみせた。

そして、最難関とされた、女装して市井の男を誘惑する、という工作員試験。


ここで、先ほどの男色の男子隊員が女装して街に出向き、奇跡的な成功を見せた。彼は、いや彼女は目の肥えた貴族男性たちを次々と籠絡し、重たい金の袋を持ち帰った。

同僚の女子隊員たちから次々と軽蔑の視線を浴びながら、彼の圧倒的な成功に刺激された他の者たちも次々と試験を突破していった。


特訓の最終日、並び立つ五十名の凄腕たちを見渡し、タチバナは少し不満そうに口の端を上げた。


「あなたたち、野望はないの? もっと大きくなりなさいな。クリス様の役に立てとは言わないわ。せめて私の役に立ちなさい」


バスクが深々と頭を下げた。「教官殿。ありがとうございました」

締めくくりとして、全員へ教官からの労いの抱擁が与えられた。


男性隊員たちは一人を除いて顔を真っ赤に染め、女子隊員たちもまた頬を紅潮させて息を荒げた。

毒牙を持つ美しき魔物によって、中央軍の中に恐るべき影の軍団が誕生した瞬間であった。


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