4-2 布石
東方国境警備隊に長く留まる気など、クリスには毛頭なかった。彼には軍組織の階段をどこまでも登り詰めていく必要があったのだ。
圧倒的な軍事力を身につけた上で、不正を貪る門閥貴族を処分する先鋒となるか。あるいは大貴族に恩を売って下級貴族を叩き潰し、返す刀で大貴族を斬るか。はたまた政治家に転身し、軍事力という圧倒的な武と、権力というふたつの刃で貴族どもを切り刻むか。
いずれにせよ、すべての起点となるのは「軍隊」という国家最大の暴力装置を己の手足として動かせる実力であった。ここで順番を誤ってはならない。権力など、実戦部隊の物理的な力によって容易く踏みつぶされればそこで終わりなのだ。まずは力、それも圧倒的な暴力を掌握せねばならない。
そしてクリスには、復讐という目下の目標の先に、さらに大きな目標があった。この世から、食料も物資も人命も無駄に消費してしまう戦争そのものをなくすことである。
しかし、この時点ではその実現に至る道筋も手がかりも、まったく見えていなかった。いずれ実力と権力がついてくれば見えてくるものもあるだろう。まずは先を見すぎて目の前の小石に躓かないことが重要だった。
クリスの中央軍帰還は、呆気ないほど滑らかに実現した。タチバナが中央軍後方情報室の人事部長へわずかに圧力をかけるだけで、すべてが決したのである。
中尉の階級のまま、クリスには新たに「中央軍後方情報部次席参謀」という仰々しい肩書が与えられた。後方情報室の高級幹部であり、組織内での序列は上から八番目にあたる役職であった。
二十八歳の秋、中央軍情報室へと返り咲いたクリスは、さらなる裏工作を敢行した。翌年春の人事異動において、シロタとロランの二人を中央軍へと移動させることに成功したのである。
「シロタ、よく来た。今日からお前には俺の副官を命じる。階級は一等兵だ」
「は!」
王国軍では後方部門は少尉以上に副官をつけることが認められており、実戦部門は准尉以上に副官をつけることが認められていた。更に後方情報部の少尉以上には副官、そして一般兵の部下とは別に、私兵扱いとなる独自の「工作員」を雇う特権が与えられていた。
この私的工作員への報酬は王国軍から拠出されるものの、彼らは軍組織の規則に縛られず、情報参謀が自由に動かし、軍へ報告する義務すら存在しない。実質的には軍組織の飯を食みつつ軍には縛られない、極めて使い勝手の良い影の駒であった。そして軍にしてみれば『資金は出すから結果を持ち帰れ』というわけである。タチバナはこの制度をフルに活用し、度々莫大な報酬を手にしてきたのだった。
そして、もう一人の異能であるロランを自らの手元に置くことも避けた。
ロランは武の結晶である。彼は血と汗の匂いが漂う実戦部隊にいてこそ、その真価を遺憾なく発揮する。情報部の室内で腐らせていい男ではない。
折良く、軍の中へ見過ごせない男が現れた。
春に行われた幹部候補生養成学校卒業兵の入隊式において、クリスは「ディック・ブライトン」という名を見つけ、強い不審を抱いたのだ。
すぐさまタチバナを走らせて見分させたところ、その青年こそ、かつてタチバナが国境で目を留めたあのディック・シャドウ本人であることが判明したのである。
クリスはタチバナを動かし、ロランをその新任准尉が率いる実戦部隊へとすべり込ませた。
ディック・ブライトン。あの男が今後、我々の野望の前に立ちふさがる敵となるのか。それとも、歯牙にもかける必要のない羽虫に過ぎないのか。
ディックの元へと放ったロランの目を通じて、その牙の鋭さを克明に確かめるために。
こうしてクリスは、王都で静かに布石を打ち始めた。
「タチバナはいるか?」
「はい、クリス様」
「ディックがシャドウと名前を偽っていた事は上手く使えるか?」
「使えると思いますわ。ただし、ディックの得になるだけだと思いますが」
「・・・そうかもしれんな」
難しいものだ。
クリスは、ディック・ブライトンという男を初めて「油断できない相手」として胸に刻んだ。




