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ヒュービック大陸興亡記  作者: 田中好雄
第3章 被害者たち
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3-6 毒婦

ロランの告白を聞き終えたクリスとシロタは、彼が背負ってきた過去の重さに言葉を失い、沈黙が室内を支配していた。しかしその沈黙をシロタが破った。


「クリス様。大変聞きにくいことなのですが、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」

「なんだ、シロタ。ここまで互いに腹を割って話したんだ。いまさら隠すことなど何もない、何でも聞いてくれ」

「ありがとうございます。では率直に。クリス様の脇にはタチバナ、という女性が見え隠れします。彼女も私たちと同じように、貴族の理不尽な犠牲者なのでしょうか?」


その問いに、部屋の隅の闇がわずかに動いた。作戦中でもない限り、タチバナはいつもクリスの傍らにいた。


「ああ、タチバナのことか。本人に聞いてみよう。タチバナ、話してもよいか?」

「はい、クリス様。ジャスティン様のお話まではお願いいたします。その先は、私自身の口からお話しいたしますわ」


クリスは二人へ鋭い視線を向けた。


「この場で聞いたことは、決して他言するな。タチバナの話をする前に簡単にだが私の義兄の話をしないとならん」


そう言ってクリスは、新たな家門であるギャロット家と、そこで兄となるはずだった男の悲劇を静かに語り始めたのだった。

実家レイバー家の没落と父親への嫌悪から、クリスは他家、特に貴族家へ養子に入る決意を固めていた。


門閥貴族という特権階級を根絶やしにするには、軍で圧倒的な権力と実力を手にするほかない。だが平民のままでは最高でも准尉までしか昇格できず、国家を動かす位置には届かないのだ。

そこでクリスが目をつけたのが、最下級貴族である「準男爵家」であった。その準男爵家の中でも、昨年たった一人の長男を失い資金繰りに喘ぐギャロット家を見つけ出したクリスは、執念で当主との面談を取り付けた。


「準男爵様、初めまして。クリスと申します」

「うむ、知り合いの強い頼みで会うことにしたが。私に何のご用かね?」

「単刀直入に申し上げます。私をギャロット家の養子にしていただけませんか。もちろん、それ相応のお礼はお約束いたします」

「理由を伺おう。何の目的があって我が門地を欲する?」


クリスはここが勝負と直感し、自らの過去と、家族を破滅させた上位貴族への激しい憎悪、そして復讐という狂気的な本音を包み隠さず打ち明けた。もし不敬罪で訴えられればその場で死刑となる大博打であった。

当主は長い沈黙の後、クリスを見つめた。その眼差しの奥に、亡き息子が最後まで捨てなかった貴族社会への怒りを見たのかもしれない。後継者と資金を必要とするギャロット家と、貴族の身分を必要とするクリス。両者の利害は、不気味なほど完全に一致していた。


「わかった。今の話は何も聞かなかったことにしよう。私の記憶からも消し去る。養子縁組の件は承知した。約束通り、謝礼の準備を進めなさい」


手続きを終え、クリス・レイバーという平民は消滅し、新たに「クリスティ・ギャロット」という準男爵家の子弟が誕生した。

晴れて養子となった夜、クリスは新たな養父の書斎へ呼び出された。


「クリス。我が家の一員となったお前に、知っておいてもらいたい話がある」

「はい、養父上。何でしょうか」

「お前の義理の兄となるはずだった男、ジャスティン・ギャロットのことだ」


養父の口から語られたのは、貴族の醜悪さを象徴する物語であった。

ギャロット家は軍から委託を受け、戦災孤児を引き取って基礎教育と軍事訓練を施し、兵士として送り出す養育施設を運営していた。しかし身内に現役の軍人がいないというだけで見下され、軍官僚たちから常に不正な賄賂を搾取されていたのだ。


正義感の強い義兄ジャスティンは、家を助けるため、自ら軍に入隊して准尉となった。

そんなある非番の日、繁華街の路地裏で女性の悲鳴を聞いたジャスティンは現場へ駆けつけた。そこで彼が見たのは、名門モーリン子爵家出身の少尉とその取り巻きが、一人の若い女性を押さえつけ、暴行している現場であった。


「やめろ!」と割り込んだジャスティンだったが、取り巻きたちに阻まれた。乱闘となったものの多勢に無勢で、たちまち羽交い締めにされた。

「この下郎が!」


モーリン子爵家の少尉は取り巻きにジャスティンの身分を確認させ、取り押さえられたジャスティンを嘲笑いながら、怯える女性の耳元へ囁いた。


「いいか?お前と家族の命が惜しければそこの男に乱暴されたと軍に告発しろ。断ればお前の家族を殺す」


首元に冷たい刃を突きつけられた女性に、選択肢はなかった。

女性は血の涙を流しながら「ジャスティン・ギャロット准尉に乱暴された」と偽りの告発をした。軍法会議にかけられたジャスティンは、上官の必死の減刑嘆願により死刑こそ免れたものの、最も国境紛争が頻発する東方北部国境警備隊の最前線へと追いやられ、戦死した。

ジャスティンは帝国軍との混戦の最中、後方から飛来した味方の矢を受けて死亡した。軍は誤射として処理したが、実際にはモーリン子爵家が差し向けた兵による暗殺だった。


「クリス様、そこから先は私自身がお話しいたしましょう」

「そうだな、では頼む」

「ジャスティン様に虚偽の罪を着せた女。それが私です。あの方が死んだと知った後、モーリン子爵家の代理人が私のもとへ現れました」


タチバナは淡々と告げた。そこから先は、彼女自身の証言をもとに語られた。

暴行事件と虚偽の告発の後、モーリン子爵家の代理人が現れ、


「お前が自ら嘘の告発を行ったという証拠はこちらにある。脅迫されたなどと訴えても、平民のお前とモーリン子爵家のどちらが信じられると思う?これをバラされたくなければ、大人しく我が家の奴隷になれ。奴隷となるなら、お前の家族には手を出さない」


とさらなる脅迫を突きつけてきた。奴隷となることなど受け入れられない。だが拒めば、家族、とりわけ最愛の妹、タチバナ・サキが標的となる。生きたまま逃げれば、モーリン子爵家の追及は家族へ向かう。ならば、自分は一度死ななければならない。タチバナは自らの死を偽装することを決めた。


「家族を守るには、私が一度死ぬしかありませんでした。ですから私は崖から身を投げ、自らの死を偽装したのです」


タチバナは数日前から潮の流れと月齢を調べ、崖下へ飛び込んだ者が沖へ流されたと判断される時刻を選んだ。崖の上には遺書と靴を残し、衣服の下には空気を封じた革袋を忍ばせていた。

計算上は、岬の裏側にある人目につかない岩場へ流れ着けるはずだった。だが荒波の中で革袋の一つが裂け、岩場へ這い上がった時には半ば意識を失っていた。

翌朝、崖の上に残された遺書と靴が発見された。捜索は行われたが遺体は見つからず、激しい潮流にさらわれたものとして、タチバナは死亡したと判断された。一方、岩場で意識を取り戻したタチバナは、夜を待ってギャロット家へ向かった。


自殺を偽装し、計算した通りに生還したタチバナであったが実家に顔を出すわけにはいかない。

極限状態の中で、彼女は今後について冷静に考えた。


私が偽の告発で破滅させてしまった、あのギャロット準男爵家へ飛び込もう。ギャロット準男爵から憎まれ、その場で殺される可能性もある。だが、真実を告げるべき相手はギャロット家以外にいなかった。

モーリン子爵家から脅迫された被害者として真相を打ち明ければ、子爵家の横暴を伝え、少なくともジャスティンが罪人ではなかったことを家族へ証明できる。


深い闇夜に紛れ、タチバナはギャロット家の門を叩いた。門を開けて出迎えた者こそ、養子に入ったばかりのクリスであった。

衝撃的な真実を語るタチバナの告白を、当主は激しい憤怒と悲しみに震えながら聞き入っていた。


当主の拳は震えていた。目の前の娘は、息子を破滅させた告発者である。だが同時に、息子が命を懸けて救おうとした被害者でもあった。

当主は背後に控えるクリスに意見を求めた。


「クリス。お前なら、どうする」

「養父上。養父上が今、お心の中で出された結論の通りでよろしいかと存じます」


クリスには養父の決断が手に取るように分かっていた。当主は力強く頷いた。


「分かった、タチバナ。当面は名を変え、この屋敷に滞在するがいい。クリス、お前が責任を持ってこの娘の面倒を見なさい」

「承知いたしました、養父上」


その晩、クリスは用意された一室でタチバナと二人きりで対峙した。


「タチバナ。お前はこれから、本当はどうしたいのだ?」

「私はもう一度、大好きな父母と妹に会いたいです。そして、私を救おうとして命を奪われたジャスティン様の名誉を取り戻したい、この二つだけが私の生きる意味です」

「だが、お前は一度死んだ人間だ。普通に生きていては二度と叶わないぞ」

「いいえ!あの憎きモーリン子爵家さえこの世から消え去れば!」

「無理だ。あの子爵家の背後には上位の伯爵家がつき、下にはふたつの男爵家がいる。モーリン子爵家を敵に回すことは、この国の貴族社会全体を敵に回すことと同じなのだぞ」


クリスの冷酷な現実の提示に、タチバナは微塵も怯まなかった。


「貴族全体を敵に回すなど、痛くも痒くもありません。あの傲慢な貴族どもをすべて滅ぼしてでも、家族のもとへ帰り、ジャスティン様の汚名を雪ぎます!」


タチバナの瞳に宿る漆黒の覚悟を目にしたクリスは、ふっと口元を歪めた。


「そうか。ならば提案がある。お前、私の部下となり、私の裏の仕事を担う気はないか?」

「裏の仕事、とは?」

「標的に近づき、罠を仕掛ける。男を色仕掛けや金でハメる。時には誘拐、暗殺、冤罪、脅迫も必要になる。そうだ、かつてお前があのモーリン子爵にやられたこと、そのものだよ」


その言葉を口にした瞬間、クリスの脳裏に、弱者を踏みにじって歪んだ自尊心を満たしていた実の父親の醜悪な姿が過った。

弱者を踏みにじる親父を激しく軽蔑した自分が、今、傷ついた少女そのものを道具として使えと言い放っている。俺もまた、あの親父以上の怪物に落ちている。


己の冷酷さを自嘲しながらも、クリスの瞳から光が消えることはなかった。貴族という連中を滅ぼすためならどんなことでもできる。怪物にならなければ怪物を倒せないのなら、喜んでそうなろう。

クリスの言葉に、タチバナは躊躇なく冷たく言い放った。


「それで家族を守り、ジャスティン様の仇を討てるのなら、私は鬼にでも蛇にでもなります。どうか私を、あなた様の影としてお使いください」


翌日から、タチバナの地獄のような修行が始まった。

クリスは王都の闇から裏社会の者たちを金で雇い、その技術をタチバナにすべて吸収させた。

変装、尾行、潜入、文書偽造、盗み、毒物、秘密の引き出し方、男の欲望を利用する色仕掛け。そして捕縛された際の尋問への対処、痛みの中でも秘密を守る訓練なども行った。


特に彼女が血の滲む努力を重ねたのは『男性の心理を見抜く眼力』と『男の心と身体を虜にする誘惑の技術』であった。

その技術を完成させるため、彼女は高級娼館へ使用人として潜り込み、客の会話、虚栄、欲望、警戒が崩れる瞬間を半年間観察した。クリスは客を取る必要まではないと止めたが、タチバナは「実地を知らぬ者に人は操れません」と自ら望み、観察だけでは得られない技術まで身につけた。


過酷な修行を経て、タチバナは圧倒的な自信と魅力を放つ別人のような存在へと変貌を遂げた。着物や化粧を変えれば、かつてのタチバナと見抜ける者は、ほとんどいないほどであった。

クリスが幹部候補生養成学校を卒業する頃、多くの技術を得たタチバナは、参謀となったクリスが最初に雇い入れた最も信頼できる第一の工作員となったのである。


タチバナの告白を聞き終えた室内に、再び深い沈黙が訪れた。

この夜、クリス、シロタ、ロラン、タチバナの四人は、初めて互いの過去と憎悪、そして目的を共有した。それまで別々に燃えていた復讐の炎は、王国を根底から作り替えるという一つの野望へ束ねられたのである。


「まずは中央軍に戻り、圧倒的な実力をつける。辺境貴族など歯牙にもかけないほどの力をな」


クリスは自ら人事異動を画策し、約一年後、中央軍への帰還を果たした。

そしてクリスが中央に復帰した翌年の人事異動において、シロタとロランの二人を中央軍へ転属させ、それぞれの立場でまずは上を目指させる。


知のシロタ。

武のロラン。

裏のタチバナ。

そして彼らを率いる将のクリス。


王国の不条理な歴史と特権階級を根こそぎ焼き尽くすため、彼らは最初の一歩を静かに踏み出したのである。


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