3-5 母親
「私の母は、二十六歳の時に私を産み落としました。私は父親の顔を知りません。母はたった一人で私を育ててくれました」
そう語り始めたロランの言葉は、二人の想像を遥かに超える凄惨なものであった。
黒人奴隷の父母を持つロランの母は、王都にあるシータ男爵家で召使い夫婦の娘として育てられた。父親は常におらず母親はいつも疲弊しきっていたが、貧しくも温かい愛情をもらっていた。
しかしロランの母が十八歳の年、そのささやかな平穏は終わりを告げた。次男に呼び出されて部屋へ入った彼女は、長男から辱めを受けている母の姿を目にした。あまりの衝撃に、彼女は思わず顔を背けた。
長年の屈辱で心をすり減らしていた母親は、娘にその姿を見られたことに大きな衝撃を受け、その場で舌を噛み切って絶命したのである。
それを知った三兄弟は、おもちゃを一つ失ったことに激昂した。そして腹いせに十八歳の少女を母親の代わりとし、長年にわたり非道な仕打ちを加えた。
少女の心には三兄弟への激しい憎悪と怒りが渦巻いていた。しかし、暴行を繰り返されるうち、恐怖と苦痛に心が麻痺していく自分自身が嫌でたまらなかった。
それから八年近く、彼女の日常は変わらなかった。朝から晩まで使用人や三兄弟の命令に従わされ、夜には避妊薬を飲まされる。翌日もまた、同じ生活が始まった。
当時、王国の医療技術において、諸外国と比べても突出して発達していた分野があった。「避妊」である。
それはいかに妊娠させないかという一点において特殊薬が開発されており、聖導教会が神の薬として一手に管理していた。多額の寄付と引き換えに与えられるその薬は九割九分以上の確率で妊娠を防ぐが、服用する女性側には小さな確率で重度の精神異常をきたす恐ろしい副作用が存在していたのである。
だが、使い捨ての奴隷がどうなろうと貴族も教会も知ったことではなかった。
毎日続く暴行の中で、彼女の心と身体は地獄に馴染んでいってしまった。そして自分のもとへ送り込まれる男たちの性格や弱さを知るうちに、彼女の脳裏にひとつの生存戦略が浮かんだのだ。どうすれば肉体の痛みを減らし、心の苦しみを和らげられるか。
ただ苦痛に耐える受動的な姿勢を捨て、あえて自ら積極的に男たちのことを考えようとした。
特に男奴隷はその過酷な肉体労働、そして貴族の機嫌一つで鞭打たれる恐怖、更に粗末な食事と短い睡眠時間。そのため常に疲れがたまり、身体を休めようにも鞭打ちが怖くて心すら休まらない。そんな中で唯一、執事から認められた発散の場が彼女だったのだ。
受けている苦痛の形は違っても、彼らもまた貴族の支配によって心を削られている。その点では自分と同じだった。
「であれば私にもできることがある。ただ、私の心の疲労は誰が慰めてくれるの?」
夜な夜な枕を涙で濡らしつつ、まずはこの館で生き残らなければならない。そのためには使えるものを何でも使う、たとえそれが自分の身体であったとしても!
その後、ロランの母は、自分のもとへ送り込まれてくる男奴隷たちに積極的に話しかけるようになった。
「辛いの?どこか身体に痛みはある?吐き出したいことがあれば聞くよ。疲れているなら揉みほぐすわ。これは、ここだけの秘密よ」
ロランの母がこのように少しずつ心を開かせようとすると次第に男奴隷も会話をするようになった。とある時に男奴隷が、肩が凝って、というとロラン母は彼の肩を揉んだ。別の男奴隷が、めまいがする、といえば自室から薬を持ってきて飲ませた。そうしていく内に少しずつ打ち解け始め、残り物の食事を分けてくれたり自分勝手な暴力を控えたりするのだった。
ある日、男奴隷が何かで失敗をして鞭を打たれ、体中をアザだらけにしてきた。背中に何本も血が滲んでおり、奴隷は必死に痛みを堪えていた。この様な時にここに来ることはないのに、と思ったロランの母はすぐに思い直した。この様な時だからこそ、ここに来たのだと。
すぐに「痛かったでしょう、つらかったでしょう」と言い、彼を抱きしめた。彼は涙を流して言った。
「身体も痛いが心が痛いんだ。俺は三男坊っちゃんの手が当たって割れた高価な花瓶、その犯人にされたんだ」
「そうなのね。それはよくあることだけど、つらいね」
「よくあることだけどな、今回はその三男坊っちゃんが俺に鞭を打ったんだよ」
「そうだったのね。腹が立ったでしょう?私に当たり散らしたくなるくらいに。そのかわり優しくしてね」
「いや、そんなことをすれば俺が三男坊っちゃんと同じになってしまう。それだけは嫌だ」
こうして彼女は、この屋敷で苦しんでいるのは自分だけではないことを知っていった。
やがて一部の男奴隷たちは、彼女の部屋を欲望を吐き出す場所ではなく、痛みを言葉にできる唯一の場所として訪れるようになった。
そんな歪んだ生活が八年近く続いた。そしてある朝のことであった。
突然、彼女の頭の中に白い霧が深く立ち込め、その場に激しく倒れ込んだのだ。
こんなところで倒れてはいられない。早く部屋へ行かなければ、殴られてしまう。
異常な強迫観念に駆られながら、いつもの部屋へ這い進もうとするが、意識は混濁していく。辿り着いたベッドで倒れ込んでいると、入ってきた使用人の男が彼女の異常を見て青ざめた。その後執事は医者を呼び、医者は青ざめる執事に静かに告げた。
「避妊薬の副作用による精神障害です。投薬を止めれば、いずれ回復します」
執事は使用人たちに投薬の中止を命じ、三兄弟にも「価値を落とさないため、回復を待つように」と進言したのだった。
避妊薬の服用をやめたことで、彼女の薬による意識の混濁は回復した。
しかし正気を取り戻した彼女を待っていたのは、前と変わらぬ日常であった。
男奴隷たちは以前より彼女を気遣うようになったが、執事が定めた仕組みそのものから逃れることはできなかった。三兄弟に至っては、彼女の回復を確認するや、何事もなかったように以前の日常へ引き戻した。
ただし今回は、あの忌まわしい避妊薬を一切服用していない状態のままであった。そして一ヶ月後。体の異変から妊娠を確信した彼女が事実を告げると、執事は冷酷に言い放った。
「ふん、妊娠したのですか。ですが、それでもまだ働けるでしょう。動けなくなるまでは、これまで通りの仕事を続けなさい」
大きな衝撃を受けた。自分も母のようにこの屋敷で子を育てられるかもしれないと淡い期待を抱いていたからだ。そして身重の身体では役目を果たせなくなった冬の日。犬の餌代にも満たない僅かな銅銭を投げつけられ、ボロ雑巾のように屋敷を追い出されたのである。
ロランは言葉を切り、血が滲むほどに拳を強く握りしめた。
「そうして地獄の果てに生まれたのが、この私です」
その声は地を潰すように低く震えていた。
「私は物心ついた時から、母が流す涙と貴族への呪詛を子守唄代わりに聞いて育ちました。母を庇護してくれた農場主から農作業を教わり、そこにいた元軍人の老兵から死に物狂いで剣を学びました。長年の酷使で身体を壊していた母は私が十歳になった年、あの貴族どもへの怨念を遺したまま無念の死を遂げたのです」
ロランは平民初等学校に入るも肌が黒い、というだけで厳しい差別といじめを受けながら成長した。学校に、ロランと同じ肌を持つ者は一人もいなかった。彼は卒業まで、友人も、先輩も、後輩も持てなかった。
ロランは友人を欲したがいつも一人であり、寂しさで心が痛くなるといつも剣を振るい、汗を流した。剣を振るっているときだけは寂しさを忘れ、母を思い出すこともなく黙々と、ただひたすらに剣だけをみていた。
中等学校高等部を卒業後、ロランは働き口をもとめて幾つかの仕事場に弟子入りを求めたがすべて断られた。どの親方も、ロランの顔を見るまでは話を聞いた。だが黒い肌を目にした瞬間、態度を変えた。ロランは軍人になることを決意した。自分に剣を教えてくれた元老兵も言っていた。「軍は肌の色で入隊を断ることはしない」
そしてロランは入隊し、すぐに最前線である東部にある北部国境警備隊へ二等兵として配属された。そこで出会ったのがディックであり、クリスであった。
語り終えたロランの全身から、凄まじい殺気と冷徹な復讐の闘志が立ち上っていた。
クリスとシロタは、そのあまりにも悲絶な事実に背筋を冷やした。ロランの胸にある怨念は彼個人のものではなく、命を削られた母親の怨念そのものなのだ。
そしてクリスにはすべてが繋がった。鉱山奴隷の鎮圧の際、シロタの冷酷な策に反対していたロランが途中で容認へ転じた理由。
「ロラン。あの時、お前が反対を取り下げたのは、その貴族家がシータ家だったからだな?」
「クリス様、その通りです。母を踏みにじったあの家名を聞いた瞬間、私の中の迷いは消え去りました」
ロランはひとつだけ黙っていたことがある。それはこの地にきたディック・シャドウは自分に関心を示して名前を聞いてくれたが名乗りを断ると残念そうに戻っていった。また関心を示してくださるだろうか?と思っていたらクリスが赴任してきた。そしてすぐにロランのことを強く求め、ひとりの人間としてみてくれた。そしてロランの力を見るためにわざわざ武術大会まで開いた。
そしてクリス様は貴族だったが驚いたことに平民出身であり、貴族に極めて強い復讐の気持ちを持っていた。クリスもまた、自分と同じように貴族への復讐を願っていた。そのうえ、肌が黒いというだけで人間扱いされてこなかった自分を頼り、大切な実戦部隊まで任せてくれた。
ロランは心に固く誓った。
「クリス様とともに貴族へ復讐を果たそう。自分を初めて一人の人間として認めたクリス様の剣になろう」
そう決めたのだった。
クリスは静かに頷いた。
「そうか。よく話してくれた。シータ男爵家の首はいずれロランの母親の墓前に捧げよう」
ロランとシロタ、そしてクリスはお互いを見つめていた。




