3-4 天才
シロタとロランの前で、自らの凄惨な過去を静かに語り終えたクリス。その目からは自然と涙が溢れ出ていたが、彼はそれを拭おうともせず、ただ虚空をじっと見つめていた。語られたあまりの惨劇に、シロタもロランも一言も発することができず、ただ息を呑んで言葉を失うのみであった。果てしなく重い静寂が部屋を支配する。実際には数分も経過していなかっただろうが、空気は冷たく澱みきっていた。やがて、クリス自身がその静寂を切り裂くように、冷徹な声を発した。
「私はブライトン伯爵家とローブ子爵家を心の底から憎んでいる。今の世でこんな発言をすれば不敬罪で裁判だが、これが私の本音だ。君たちが私のこの言葉を不敬罪として憲兵に通報するというのなら、私は止めはしない」
「クリス様。そのようなことを、私たちがするはずがありません」
シロタは毅然とした態度で、クリスの濡れた瞳を真っ向から見据えた。
「そして、それを証明する証拠がここにあります」
「何だ?その証拠とは、シロタ」
「私の身の上話を聞いていただけますか?それこそが、私があなたを裏切らないという何よりの証拠となります」
「お前の身の上話だと?だがシロタ、その話を聞くことで、私やロランに何か具体的な利益があるのか?」
シロタはそれを聞くと、深刻すぎる空気を察して以前の問答を裏返してきたクリスの意図を汲み取り、不敵に口元を歪めた。
「無いでしょうね。ですがクリス様、クリス様は利益がなければ、他人の話を聞くこともできないお方ですか?」
「そうだな。そこまで言うなら、聞こうか」
以前と正反対になった問答に、クリスは目を見開き、やがて小さく笑った。しかしその口から語られた過去もまた、過酷で不条理に満ちたものであった。もっとも、この場でシロタが二人へ語ったのは、父母と三人で暮らしていたこと、学校で才能を認められたこと、そして大学で未来を奪われたことまでだった。
「私の祖先、と入っても数代前ですが、群島からやってきました。そして私の母は、ハポス商会で事務仕事をしていたそうです。妊娠をきっかけに商会を休職していた母は私が一歳になったときに私を連れて商会に復職しました」
幼児期のカンタは商会の隅で遊んで成長した。カンタの遊びはいわゆる玩具や騎士ごっこ、ではなく筆と紙で数字を計算したり、図形を書いて角度を測る、地図を見て地名を覚えたり、文字を書いたり、など謎の遊びをしていたのだった。商会には帳簿、地図、計算書、航路図など、少年の好奇心を刺激するものが溢れていた。
カンタは凄まじい速度で文字を覚え、計算を覚え、地図の見方を覚え、天文を覚えていった。その後、平民初等学校に入り学業は常に一位。
しかし身体を動かす科目については中よりも下で見るべきものは無かった。これは平民中等学校でも同様であり、その頭脳の優秀さには誰もが舌を巻いた。その後、平民には原則として学費の優遇がないが、成績優秀者には奨学金が認められ、そして高度な経済学を学べる「王立政治・経済大学」へと進学した。
通常は五年制の難関大学であったが、極めて優秀な者のみに許される飛び級制度が存在していた。
「私は奨学金制度を利用して入学しました。早く卒業して学費の負担を減らしたかったため、五年間で卒業するところを三年修了時に卒業試験を受ける資格を得ました」
シロタは三回生修了時、四回生と五回生の課程をまとめて免除される特別試験にも合格し、卒業試験の受験資格を得たのだった。近年稀に見る学業の天才であったが、この大学の在学生の大半は裕福な貴族階級の子弟だった。平民の特待生であるシロタが並み居る貴族を後方に置き去りにしている現状を、貴族たちは「不愉快極まりない不祥事」としていたのだ。
「卒業試験の日を目前にしたある日、教授陣から冷酷な条件を突きつけられました。それは、以下のようなものでした」
「卒業試験に合格すれば卒業だ。だが不合格の場合、通常課程へ戻ることも、再試験を受けることも認めない。その場で退学とする」
通常の進学コースであれば追試や留年が認められる。しかし飛び級の平民に対しては
「一発勝負」
であり、失敗した瞬間に即退学という不平等なルールであった。
「少しでも早く社会に出て稼ぎ、苦労をかけた母へ仕送りをしたい一心でしたので、その理不尽な条件を呑みました。ですが、運命の卒業試験の当日、朝のことです」
試験会場へ向かう道中、路地裏から突如として現れた屈強な暴漢たちに襲撃されたのである。肉体を使った戦闘に関して平均以下でしかないシロタは、抵抗できぬまま馬車に押し込められ、拉致されたのだった。
「放り出されたのは、首都から遥かに離れた郊外の荒れ地でした。泥に塗れて起き上がった時、すでに試験の開始時刻は過ぎていました」
今からどれほど急いで戻ろうとも、すべては遅すぎた。輝かしい未来が一瞬にして音を立てて崩れ去った瞬間であった。自宅までの徒歩二時間の道を、血と泥を拭いながら歩き続けた。歩きながら、冷徹に思考を巡らせる。
「私を襲った暴漢どもを後に独自に調べ、暴漢へ金を渡した貴族学生を特定しました。大学内で私を敵視していた貴族の学生連中が金で雇ったクズどもです。私が卒業試験で最優秀の成績を収めれば、その下に甘んじる名門貴族たちの面子は潰れる。彼らにとって、平民出身の私など不快以外の何物でもなかったのです」
シロタは血と泥にまみれた姿で大学へ戻り、襲撃と拉致を訴えた。しかし教授陣は、試験時刻に不在だったという事実のみを採用する、と告げ、事情の調査すら拒絶した。学力では勝てない。だから試験そのものを受けさせない。それが彼らの答えだった。飛び級制度の「一発退学」を逆手に取った、最も致命的な一撃であった。
「この国では、大学中退者は重大な問題児か犯罪者と見なされます。どれほど学業に劣る貴族子弟であっても、家の力で卒業できる仕組みがある。その大学を中退した者は、重大な問題を起こした者だと見なされるのです。飛び級の失敗という真実は、履歴書の中退の二文字で塗り潰されました」
シロタは沈む夕日を見つめながら、幼い頃から慣れ親しんだハポス商会の門をくぐった。ハポス商会はその出発点を群島国家ハポニスクに置き、表の商売の裏でハポニスク出身者とその子弟への手厚い保護と補助を提供していた。ハポス商会でシロタは事情を説明し、今後を相談した。その結果、ハポス商会はシロタに王国軍への入隊を薦め、入隊志願書の推薦人に王国ハポス商会の商会長名を記載したのであった。
軍は身分差別があるが人手不足の地方部隊で実務能力さえ示せば、平民にも仕事を任せざるを得ない。さらに兵站と財務の実績は、学歴より数字で証明しやすかった。
「肉体を使った前線での戦いには自信がありません。ですが、頭脳を駆使した裏方の兵站管理であれば、必ずや頭角を現せると踏んだのです。そして実力をつけた後に私を叩き落とした貴族どもに一泡吹かせてやりたい、これが私の望みです」
貴族をいつか打倒すべき敵として胸の奥底に黒々とした炎を灯したシロタだった。ふたりは同じ苦しみを味わい、貴族への復讐を誓った者同士の絶対的な共鳴があった。
二人の壮絶な話を、黙って聞いていたロラン。今こそ自らの暗い過去を語るべき時だと感じていたが、話があまり上手ではない彼にとって言葉を切り出すのは容易ではなかった。
躊躇するロランを余所に、クリスがふっと息を吐いて口を開いた。
「シロタ。私は生まれて初めて貴族どもに感謝したぞ」
「どういう意味ですか、クリス様」
「だってそうだろう?大学の愚かな貴族どもがお前の未来を奪ってくれたからこそ、私はシロタに出会えたわけだからな」
「いや、それは・・・」
シロタは苦笑したが、その言葉を聞いた瞬間、ロランの顔色がさっと変わった。もしここで私が母の話をすればクリス様は私の母のことも、同じように、そのおかげで出会えた、と笑って言うのだろうか?その時、私は冷静さを保っていられるだろうか・・・?
ロランの身体が微かに強張る。その一瞬の拒絶を、クリスは見逃さなかった。
「いや、すまなかった。今の言葉は不謹慎だった。ロラン、お前にも話せない過去があるのだな」
真っ直ぐに話を振られ、ロランの表情は凍りついたように強張った。クリスが、無理に言わせず、自然に打ち明けるまで待とうか、と思い直した、その瞬間であった。
「クリス様。これは自分にとって、命にも代えがたい深刻なことです。今まで、誰一人として話したことはありません。ですから、最後まで聞いていただけますか」
「承知した。約束する」
クリスが真摯に頷いたのを見届け、ロランは重い唇をゆっくりと開き、語り始めたのだった。




